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第四章(下) 共産邪霊、人類を破滅の道へ
目次
- 神位を乗っ取る
1)中国共産党は神位を乗っ取る
2)天に通ずる中華文化を破壊する
3)敬神、敬天の生活方式を排除
4)共産党文化の魔道の場を築く
2.神が伝えた言語・文字および破壊された漢字
1)天機が秘められている神伝の漢字
2)神性に満ちる中国の文字
3)中国共産党は神が伝えた文字を壊す
3.中国共産党による修練文化への破壊
1)伝統文化の中の修練文化
2)修練文化を破壊するプロセス
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造物主は最後に衆生を済度するために、自ら中国で天に通ずる中華伝統文化を築き上げ、系統的に伝統文化の各領域における天(神)に通ずる要素を按配した。このような文化を破壊すれば、人と神とのつながりを切断することになる。今、中国人の「文化」はもはや、先祖の伝統とは似ても似つかないものになった。邪霊は人知れずに中華の伝統文化を余すところなく無神論の思想体系にすり替えた。そのため、人類文化はそのルーツを失い、伝統的価値が失われ、神と相通じる要素が破壊された。この文化が破壊されれば、人類は破滅の道へとまっしぐらだ。
本書はすでに読者の皆様に、共産主義の悪魔が人間に対して、肉体を「殺し」を、思想の次元において「騙し」を実施してきたことを明らかにした。本章では、共産党が人々の認識を越えたレベルで中華伝統文化を徹底的に転覆し、破壊したことを明らかにする。
- 神位を乗っ取る
1)中国共産党は神位を乗っ取る
神は自分の姿をまねて人を造った。したがって、人にはみな神性がある。具体的に言えば、人には真実を求め、善に向かう心があり、生命の向上を望み、天国の故郷に帰ろうとする渇望がある。これに対応するものとして、どの文化にも至上の存在があり、ある民族はそれを「道」と呼び、ある民族はそれを「神」と呼び、われわれはその位置を「神位」と呼んでいる。
共産党は中国で政権を奪い取った後、暴力で中華の文物を破壊した。しかし、中華文化で言われている神位は、神が文化を築くときに作り上げた構造であるのみならず、神が人を造るときに人に与えた精神性でもある。この天に通ずる精神性を排除するのは容易なことではない。そのため、共産党の長年にわたる神を排斥する営みによって、憎悪と宇宙の中の腐敗した物質によって結集された邪霊、あるいは共産主義邪霊と呼ぶものがひそかに人の心と、破壊された中華文化の構造の中にある「神位」に取り憑(つ)き、神に成りすました。
この「神位」を乗っ取ったことにより、共産党は「真理」と「道徳」の制定者になった。邪霊は無神論を推し広め、強制的に人々の心から神の存在を抹消した。人間が根のない浮草のように、この一生一世しかなく、死ねば万事休すと思うように仕向けた。共産党は人間に輪廻転生する魂を真の生命とせず、神との縁やつながりを認めないように宣伝してきた。神がまだ人を見捨てていない時から、共産党はすでに人々を騙して強制的に神を排斥させた。そのため、人類は壊滅寸前に追いやられてしまった。この巨大な陰謀は、極めて邪悪である。
共産党が「無神論」を宣伝する目的は、人間の生命が神から与えられたという事実を否定するのみならず、自分自身が「邪霊」であるという真実を覆い隠すためでもある。具体的に例を二つ挙げる。
第一に、もし人が神の存在を信じるなら、魔の存在も信じる。どの宗教も「神とサタン」「佛と魔」のようにその存在を対比的に示している。なぜなら、神が人を救い済度するとき、必ず人々にこう告げるからである。「人間は神を信仰する過程で難儀に遭うことがあるが、その多くは魔による誘惑である。」共産党は人々に「神はいない」と教えていれば「魔もいない」と教えることになり、それによってそれ自身が魔であるという真相を覆い隠したのである。
第二に、人間は神の存在を否定するようになったとき、神による救済を拒むようになる。たとえ神が人間を救いにやってきても、人間はそれを拒否するのだ。そのため、神は最終的に人を放棄せざるをえなくなる。その時、人はおのずと魔の手中に落ちてしまう。
中国で文化大革命を振り返った際、共産党党首の神格化についての反省も行われた。しかし、その反省は非常に表面的なものに止まっていた。共産党はなぜ党首の神格化に成功したのか。この現象の実質は、共産主義邪霊が中華文化、そして中国人の心の中の、もともと神が支配していた場所を乗っ取ったことだ。
世の中で、甚大な苦難に遭う民族はいずれも、自らの神に背いた。神の加護を失うと、苦難が常に付きまとい、前途多難になる。
邪霊に憑かれた人は苦しい人生を強いられ、邪霊に憑かれた国は邪霊に操られ、民族の考え方が邪霊に支配され操られれば、その民族は永遠に再起できなくなる。邪党の党首も一般市民と同様に悲惨な結末から逃れることはできない。したがって、邪霊をはっきりと認識し、それを捨て去ることが人類の共通の使命なのだ。
2)天に通ずる中華文化を破壊する
中華文化は、その始まりから天に通ずる真の機密が含まれている。将来、救われる世人が神による開示を認識できるよう用意周到に準備された。伏羲(ふっき)氏が書契(上古の文字)と八卦を作ることについて、『帝王世紀』には「伏羲は仰いでは天象を観察し、俯(うつぶ)しては地法を観察す……」と記す。五千年にわたる各王朝、各時代において、神は中華民族を率い、止むことなく中華文化の豊かな内包を充実させ続けてきた。それゆえ、中華文化は博大で奥深く、神の眷顧(けんこ・特別に目をかけること)と加護が十分現れている。
人は神の子であり、神の造化でもある。一方で、神は自らの特徴に基づき、人間の姿形と内在の天性を造った。人倫の価値は神から与えられたもので、人間は徳を修め、天を敬い、天意に順って行動し、それをもって天のご恩に報いるべきだ。また、人体は小さな宇宙でもある。『黄帝内経』は、人体内にある五臓を中核とする五つの系統について説明した。五行を通じて外の宇宙と対応する、すなわち「人は天道に合すものなり」人は天道にしたがって修練すれば健康になり、得道して神の天国に戻ることさえ可能になる。これは中華文明に貫く修練の文化だ。
中華伝統文化の各方面もみな天に通ずるものである。人体、陰陽、五行、八卦、太極、河図、洛書、漢方、文字、音楽……いずれも宇宙の全方位の構成に対応しており、「ホログラフィック」と呼ばれているものである。それを読み取れる人なら、その内なる関連を理解することができる。中には、宇宙の範囲、天象、陰陽、盛衰、善悪、魔の撹乱、悪運の降臨、神による救済、人間の選択などなどが含まれている。
共産主義の悪魔が伝統文化を破壊する過程においても、人間に対する破壊から始まり、人の精神、生活、知識などを一つ一つ神から切り離し、人を愚かにし困惑させた。人間は天に通ずる文化の内包に興味を失い、または知りたくても理解できなくなった。悪魔の目的と手段はいずれも、人間と神とのつながりを切断するためだ。もし、伝統文化を理解できなければ、道徳の規準からはずれ、人類は変異・堕落し、ついには淘汰されてしまう。これこそ悪魔が究極の目的を達成しようとする手口だ。
3)敬神、敬天の生活方式を排除
共産主義邪霊が神位を占拠した後、人間のあらゆる生活内容と方式を一変させた。
中華伝統の中では、祭祀を行い神を敬うことは軍事よりも大切であり、国の最重要の仕事とされる。神を敬うことは中華文明の特徴となり、重要な文化活動と生活の一部になっていた。
中国人にとって、神はありとあらゆる所に存在し、生老病死から婚姻、出産育児、学業出世、福禄運勢、万事の吉凶成敗まで、いずれも次元の異なる神が司っている。「頭上三尺に神あり」と言われる所以(ゆえん)でもある。諸神の上には「上天」あるいは「天帝」がいる。古代の中国では、「天帝」はもっぱら宇宙の「至高神」、すなわち「創世主」を指しており、衆神を広く指すものではない。
それゆえ、伝統文化は従来から神を敬い佛を拝むことを重じ、人は神を敬い、天を祭り、神と通じ合うべく、徳を修めて天意に順うことで、神による加護と福禄を求める。これが中華民族の生活様式だ。
伝統社会では、人々は基本的な社会倫理、価値観は神によって定められたものと信じ、それらを「天理良心」と言う。悪事を働けば、誰も見ていなくても「天に目がある」と言われるように、神に見られていると考えた。善悪に報いがあることは基本的常識とされ、悪行のかぎりを尽くす者は、たとえば毒ミルク、地溝油(下水から作る食用)を製造したり、命の危険に晒されている人を目撃しても救わないなら、「天罰食らう」と罵られる。このようなことをすれば、天罰は自分のみならず、祖先と子孫にも及んでしまう。
中国人は、神が変わらぬ天理をもって世のあらゆることを判断していると信じる。この不変の天理は、社会を安定的に運行させる基本的な道徳価値観を築いた。
中華伝統文化の中、神農、黄帝、堯帝、舜帝および夏禹(う)といった後世に敬慕される帝王は、泰山で天地を祭る儀式「封禅の儀(封禅大典)」を行っていた。明の永楽十八年(1420年)に建てられた「天壇」は、明・清の天を祭る場所であり、その面積は紫禁城(故宮)の四倍にも及び、中国史上最大の祭祀建築物でもあった。
中国共産党が政権を取る前まで、仏閣、道教の寺院、祖廟、佛堂が中国にいたるところに建築されていた。寺院に入れば、慈悲なる神佛のほかに威厳のある金剛、裁判を司る判官などの彫像があり、その厳かで恭しい雰囲気に圧倒され、壁に刻まれる警世の文言が心に響き、人々の心におのずと敬意が生じるのだ。
共産党邪霊は、人を神とつなげたこれら寺院と神像を壊したうえ、騙しと洗脳を繰り返すことによって、中国人を完全に伝統的な生活様式から引き離した。共産党文化は、「迷信」の二字をもって、日常の中の神に関する部分を全否定した。今日、「神」の概念と中味は中国人の日常生活から取り除かれた。神仏への敬虔の念は消え、代わりに「共産党、青年団、少年隊」の加入式で邪霊のために「終生奮闘」と誓った。そして、死ぬことは「マルクスに会う」という言い方にすり替えられた。人々はこれまで考えたことがないであろうが、共産主義のために一生奮闘することは、実は神に背くことであり、神位を奪い取った邪霊のために「命を捧げ、熱血を注ぐ」ことになった。
共産党は人々の生活を神から引き離した。中国共産党は「神」を非現実的な概念に変えた。「神」が単純な抽象的概念になった時、人々の日常とのつながりが失われた。今の人々は後継ぎ、金儲け、昇進、進学のために神を拝んでいるが、神の加護を得るどころか、キツネ、イタチ、幽霊、ヘビなどを招いてしまう。神は人を救おうとするが、人はもはや神を見知らず、かえって悪魔を求めて拝んでいる。なんと危険なことだろう。
4)共産党文化の魔道の場を築く
共産主義邪霊は、神が造ったあらゆるものを人から奪った。しかし、それだけでは満足していない。究極の目的に達するために、邪霊は同時にこの世に巨大な党文化邪教の場を作った。人々がこの場の中で生きていても党文化の存在すら感じられなくなった。共産党はまず、暴力・殺戮によって人々がその場から離れられないよう脅かした。そして、その生活に慣れるように様々な虚言を吹き込んだ。その結果、人々は、この世界はこのようにできていると思い、おのずと党文化の規則と制限に服従し、共産党の考えに染まり、共産党の言葉を使うようになった。共産党が「共産党がなければ中国に前途はない」と言えば、人々は「共産党がなくなれば、我が国を導くものはない」と考えるようになった。共産党が「共産党に反対するのは中国に反対することだ」と言えば、人々は共産党と中国を混同するようになった。
共産党が支配する中国では、国民には信仰の自由がなく、自分の意思で信仰を選ぶことはできない。人は神の存在を信ぜず、自分には神を信ずる権利があることも知らない。こうして、共産党は邪悪な手段を通じてやっと思い通りになった。
信仰を持っている人はみな、神が人間をそれぞれの天国世界に済度していくと知っている。共産党もそれに倣(なら)って、中国人のために党文化の世界、すなわち神が存在せず密閉されたこの世の物質環境を作った。
党文化の世界では、生活のすべてに及ぶ規範と言語の表現がある。その中には、「天国」に対する定義を変えたり、神を誹謗中傷・否定する理論もあれば、共産党邪教の党規約、組織運営と規定もある。邪霊の目的を実現する行動の綱領、「革命」の指導思想、共産邪教の組織路線もあれば、邪教の教職員の名称、「運動」を起こす手段もある。さらに、人を懲らしめるときの手口、道徳を不問にする昇進の審査基準、天理に背く賞罰制度、人に害を加えるための訓練、洗脳のシステム、曲論邪説を公布する機構、虚言だらけのメディア…このようなことはほかにもたくさんある。
虚言は繰り返されるうち、真実として認識されてしまう。世界を征服しようという共産党の野心はいつしか、国民の誇りとなった。共産党が長年をかけて、やっと「衣食住が一応満足できる水準になった」と宣伝し、人々はそれに満足している。ようやく金持ちになったと人々は鼻息が荒くなった。しかし、共産党は国民の生活水準を少し上げても、いつかまた国民の生活レベルを下げてしまう。これに驚く必要はない。共産党の手段は従来から、猫の目のように変わっているが、その本質は変わっていない。
党文化の中には「恐怖」というものがある。共産党も自身が極悪であり、批判を封じ込めることが不可能だと分かっている。そこで、ちょっとした批判は許すが、本気で共産党を批判するなら、大変な目に遭う。何度も投獄された高智晟弁護士は良い例だ。共産党の許容範囲を超えてしまうと、投獄され拷問を受けることになる。人々は共産党の逆鱗に触れる勇気がなく、共産党のレッドラインを踏む度胸もない。なぜならば、恐怖はいたるところに存在するからだ。国外で暮らしていても恐怖に付きまとわれている。誰もいないところでも、共産党への批判をはばかる。これは、まさに逃げ場のない党文化の環境であり、時空の制限を超えてどこに行っても振り切ることができない。
2.神が伝えた言語・文字および破壊された漢字
1)天機が秘められている神伝の漢字
言語と文字は中華文化の重要な構成部分である。世界の他の文字と異なり、天上の文字にとても似ており、ただ筆画が異なるだけだ。漢字の音も宇宙とつながりをもっている。
古代の聖王である伏羲は、仰いでは天象を観、俯しては地理を察し、鳥獣の模様を観、近くは自身を観、遠くは万物を察して、書契と八卦を作った。これらのものは神と意思疎通を図ることができるだけでなく、天地万物の状況も表している。『易経』繋辞(けいじ)の記載によると、「八卦が作られた後、二個ずつ重なると、六十四の象ができ、易と成る。万事万物が漏れることなく含まれている」後世の人は、この易経の六十四の象を通じて天意を知ることができる。中華文化はその誕生当初より奥深く天に直接通じ、宇宙、天地の姿を全面的に反映し、すなわち「ホログラフィック」そのものである。易には本来文字がなく、字無しの天書と呼ばれる。
同様に、神はまた人々に記述、使用に便利な文字を残した。八卦と漢字はともに天地万物の本質を全次元的に反映するものなので、人々は「測字」(漢字のつくり・偏・筆画数などに基づいて吉凶などを占う)を通じて天意を知ることができる。黄帝の時代に、神である蒼頡(そうけつ)が伏羲の八卦に照らして漢字を作った。蒼頡は天地の変を窮め、仰いでは奎星圓曲の勢いを観、伏しては亀の模様、鳥の羽毛、手のひらを観察して文字を作ったという。(『春秋元命苞』)してみれば、漢字と八卦は同源であり、その原理も天に通ずる。中国人はこれをもって天象を観察し、天意を理解し、天道・天時・天象の変化に従って行動していた。人文を普及させ、人々に学ばせ、天下の衆生を教化し、成就させる。そして脈々と続く各王朝各時代の文化を築き、五千年の中華伝統文化を形成させた。
中華文明は神の造化により生まれ、神と感応し、通ずるものであり、その内包は博大で奥深い。漢字は中華の神伝文化を載せ、記録する道具として奥深い神伝文化の体系を表現するために、その内包が深遠なものでなければならない。東洋でも西洋でも、中国の古文字は「天書」に似ていると言う人がいる。それは、中国の古文字には確かに天機が含まれ、天地万物の法則が秘められているからである。
2)神性に満ちる中国の文字
中国の伝統文化に使用された言葉は、共産党化され、各種の現代思想に変異された今日の言葉とはまったく異なっている。『康煕(こうき)字典』と『新華字典』の「神」に対する解釈だけを見ても、その違いがはっきりしている。
『康煕字典』:「神、【説文】天神、万物を引き出す者なり。【徐曰く】申は即ち引くこと、天主が気を降ろすことを以って万物を感化する。万物を引き出すゆえんなり。又、【皇極経世】天の神は日に栖(す)み、人の神は目に栖む。また神明という……」
『新華字典』:「神、迷信にとらわれる人は、天地万物の創造者と崇拝する人が死んだ後の霊を神と呼ぶ。神仙。神怪。神主。神社。神農。神父。神権。鬼使神差(まるで物の怪に取りつかれたかのようである)」
伝統文化の中で、「文化」と「文明」という言葉およびこの言葉を構成する文字に対する理解も、共産党の字典の解釈とは完全に異なっている。
①文化
中国文化の「文」とは、聖王に表顕された「天文」(天象)より「人文」と成ったものをいう。中華文化の「化」は聖王が万民を教化することを指す。
新華字典:化 康煕字典:化
性質あるいは形態の改変:変化。 【説文】化、教育なり。老子【道徳経】
名詞あるいは形容詞の後に用いて、 我れ無為にして民自ら化す。又、徳を以て
ある種の性質あるいは状態に変わる: 民を化すを化と云う。
醜化。緑化。 【韻会】天地陰陽の運行、有より無へ、
習俗、風習:風化を傷つける。 無より有へ、万物の生息則ち化とす。
二者を比較すれば明らかなように、伝統的な「化」と現在の「化」には大きな違いがある。中華文化の中では、「化」の原義は、万物生息を化とし、万物を化して育むこと。これは中華文化に含まれている奥義と神の力である。しかし、悪魔に思想を統制された人々は徐々に文化に含まれている、神の伝えである天機に背を向けた。
伝統的「化」は人間の次元においてまた、「教化」の意もあり、聖人は徳をもって民を教育することを化という。長い五千年の歴史の中、ある文化現象を造るたびに、神は天象をあらかじめ用意し、かつ自ら世に降りて新しい文化を広めていた。一代ないし幾代の人を率いて予行演習して、人々にその意味を理解させたのだ。さらに、新しい文化が中華民族に根付くよう、新しい文化を少しずつ国民の考えに浸透させた。天地をも感動させた舜帝の「孝行」、三国時代の英雄たちによって広められた「義」、および両宋時代に楊六郎と岳飛が中華民族に残した「忠」等々が、その実例である。
②文明
中華文明の「明」:四方を照らすこと。
新華字典:明 康煕字典:明
亮、「暗」に相対する。明亮。 【説文】照らす。【疎】四方を照らすを明という。
「明」にある「四方を照らす」という本義が中国共産党によって隠され、消された。文明は、神が人に伝えた宇宙と共生できる能力であり、生気勃発して、生き生きとして止まない。すなわち、天道に合えば、繁盛、光明になり、生き生きとして止まないのである。これは神伝文化の本質とメカニズムである。
したがって、歴史上あるいは上古時代にあったから「伝統」になるということではない。儀式が盛大だから「文化」になるとは限らない。道徳、倫理、生活方式などを含め、天道に合い、宇宙を生き生きとして止まないようにすることができる文化こそ、中国の伝統文化なのである。
3)中国共産党は神が伝えた文字を壊す
漢字には天に通ずる内包があり、正字體の漢字には五千年の伝統文化が込められている。そこで、中国共産党は、中国人と神、伝統文化との関係を切断しようとして、漢字の壊滅に取り掛かった。延安時代から、中国共産党は専門の機構を立ち上げ漢字の改革に着手し、政権を奪い取った後にも「中国文字改革委員会」を設立した。いわゆる学者たちは邪霊に操られその命令に従って、漢字を段階的に簡略化し、最終的に漢字をなくしてローマ字で中国語の発音を表す、いわゆる「漢字のラテン化」を目標にしていた。
神から伝えられた漢字は神の物であるが、簡略化された漢字は神の意志に背き、漢字がもつ本来の力を無くしてしまった。その結果、簡略化された漢字は得体の知れないものになってしまい、魔性を帯びるようになった。言うまでもなく、社会で乱れた事象を引き起こし、悪影響をもたらしている。
数千年来、人々は漢字に多くの感情を与えてきた。人々が代々、使用することにより、漢字には豊富な情報が注ぎ込まれ、凝集、濃縮された。その漢字には強大なエネルギーが含まれ、一種の場として存在するようになった。各々の漢字にはみな、各種の感覚、思い、情緒、感受力、想像力、また中華民族特有の人間性、神性、詩の性格などが注がれている。このようなエネルギーの場は知らず知らずのうちに人の心理、考え方に影響を与えている。
たとえば、「神」の文字を見ると、自ずと崇敬な心情が起こり、慈悲たるものを受けていると感じられ、同時に知らぬ間に自らを制して邪念を減らすのだ。一方、「魔」の文字を見ると、恐怖感が生じ、邪悪さを感じている。魔王、魔手、妖怪、魔物、魔窟、魔力、悪魔、妖魔などの言葉は思い浮かぶ。「真」と言えば、純真、正気、善良を感じ、「假」を見れば、ペテン、卑劣と感じる。
不完全で恣意(しい)的に作られた簡略化された漢字は、神から伝えられた文字と雲泥の差がある。それは正字に本来あったエネルギーを無くし、簡略化された後に生まれた変異したエネルギーを帯びているからだ。「進」に対する簡略化を見てみよう。正字の「進」は、部首「辵」(しんにゅう)に「佳」を加える。すなわち進めば進むほど「佳」境になるという意味。しかし、簡略された「进」は、「佳」が「井」に変えられ、進めば進むほど「井」に陥ることになる。正しいエネルギーをもつ漢字がマイナスのエネルギーに変えられたのに対し、負のエネルギーをもつ正字はほぼ簡略化されていない。魔は魔のまま、鬼は元の鬼、偸(とう・ぬすむ)はやはり偸、騙(へん・たくらむ)は依然騙であり、假、暴、害、毒、腐、黄、淫などは、いずれもそのままである。
中国共産党は、漢字の簡略化という名目で、伝統文化の漢字に反映されている霊とその背後にある制約と、世人を規範に適合させる正しいエネルギーを抹消し、人々は不本意にも神から次第に遠のいた。意図的に他の伝統文化を打ち壊すことと同様に、中国共産党の漢字破壊も、人間と神とのつながりを断ち切った。
3.中国共産党による修練文化への破壊
1)伝統文化の中の修練文化
中国の伝統的な思想「天人合一」は「天と人との関係」を中心に宇宙や人生を認識しており、一種の世界観と宇宙観である。人は人間より高次元の生命がいると信じ、佛、道、神が人の憧れる生命の帰結とされる。
「天人合一」は神と呼ばれる「天」の存在を認めるゆえ、「神」の存在を認めることになる。「神は、天地の根本、万物の始め」である。自らの道徳と良知良能が天理に敵う人こそ、天と合一できる者となる。
人は天から来ており、天に帰る。中華の修練文化は源が遠く、歴史が長い。
古代の中国人にとって、「道」は万物の源であり、生命の源である。老子は、「人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」と言う。彼は、人と自然との関係を述べ、宇宙の中の万事万物がみな宇宙の特性および生き生きとして止まない運行の規律に従わなければならないと指摘した。「天の道を観て、天の行いを執る」は、人となりと事に対処する原則を述べている。すなわち、人々の行いは天道に法るべく、自らの全身全霊を天道と自然に統一させる。このようにしてはじめて、全てのことを受け入れ、天下が帰順し、天地が脈々と続いていく。佛・道二家に限って言えば、神に対する信仰は明らかであり、人が修練を通じて佛となり、道になるよう導いている。歴史上、多くの佛、道を修練する徳のある人は、修行し成佛したことによって佛家と道家の文化を豊かにした。
人は宇宙の真理を探り、神を探し、自分の棲家を求めようとすれば、まず誠心誠意になり、自らの心を正さなければならない。神は人の世における貧富貴賤(せん)を重んぜず、人の心だけを見ている。
張三豊は『大道論』で修練の道理を述べるにあたって、道を修めるにはまず身を修めるべく、身を修めるにはまず心を正し誠心誠意にならなければならないと述べ、天機をことごとく漏らしている。「吾、後人がこの正道を修めることを願うゆえ、これを直言する。道を修めるには、身を修めることを大とし、然るに身を修めるにはまず心を正し意を誠実にしなければならない。意が誠実であり心が正しくなれば、則ち物欲がみな取り除かれ、それから基を立てる根本を言う」徳を重んじ善を行い、身を修め心を正すことこそ、修練の根本なのである。
歴史上の中国人にとって、佛、道を修めることは生活の一部になり、迷信と捉える人はいなかった。修練は決して、失意の人が解脱を求めるための手段方法ではない。世間の権力と富を享受し尽くす歴代の皇帝であっても、道を求め修練したのである。黄帝は広成子に道を求め、心を静めて身を養い、百二十歳の時、龍に乗って昇天した。唐太宗は天竺より経を持ち帰ってきた玄奘を自ら出迎え、佛法を東方の大唐で広めた。ジンギスカンは三回にわたって丘処機道士を謁見し、治国および健康保持の方法を尋ねた。このように、史上、多くの皇帝も佛を拝み、道を崇め、天を敬ったのである。
2)修練文化を破壊するプロセス
中国の歴史には、軒轅(けんえん)黄帝の時から人が神に成る修練の文化が記述されている。これはすなわち、生命が返本帰真し、心を修め善に向うことである。この伝統文化の神髄は、共産主義邪霊が手を尽くしてまで破壊しようとする部分である。
共産主義邪霊は人々に、神への信仰と、人が修練によって昇華できることを否定し、神への否定により信仰の空白地帯を作り、人々に魔の邪説を信じさせようとしている。修練しようとすれば、誠意を示し心を正しなければならないが、傲慢(ごうまん)などは悪魔の本性であり、修練の要求と相反している。共産主義邪霊の眼中に神はなく、修練の文化を破壊する過程において、人々にひたすら魔性や傲慢を注ぎ込み、自己満足、傲慢を励ます。たとえば、「天地と戦う」、「法もなし天もなし」などによって、人々が神に逆らうようになった。
古代の時、人は心を正し誠意をもってはじめて修練することができた。心の中で神性が作用してはじめて、宇宙の特性と神の説法を悟ることができる。共産主義邪霊は修練文化の破壊を通じて、人の傲慢さを増長させ、人が神と完全に対立するようになった。そのため、現代人は、共産主義の情報を簡単に受け入れてしまうが、神の教えを理解し難い。
このような破壊により、今日の多くの中国人は、人間は神から伝えられた方法によって真に修練すれば佛、道、神に成れるということを理解できなくなった。中国の歴史上、佛道を修める故事がたくさんあるが、中国共産党はそれらを「神話」として扱っている。神が存在しないのなら、これらの神話は当然おとぎ話でしかない。佛を修め道を修めることに言及すれば、人々の頭に封建、迷信、唯心的、あるいは「精神的アヘン」などの言葉が浮かんでくる。
これは、人が神になる道を共産主義邪霊が直接断ち切った陰謀であり、たくさんの縁のある人々に貴重な修練の機縁を失わせた。『西遊記』は、まとまった修練の物語を描いた。その中に非常に意味深い一文がある。「夫(そ)れ人身は得難く、中国で生まれ難く、正法に巡り合い難い。この三者を全て得られるなら、これより大なる幸運なし」と。人の身は得難いが、縁があって中国に生まれても中国共産党邪霊の妨害により修練を信ぜず、正法の内包を理解できず、正法とすれ違って、今生の機会を逃せば、悔しんでももう遅い。