チベットの光 (46) 真相【伝統文化】

参考写真 ( Raimond Klavins / unsplash )

師父がそのように言い始めたので、皆は息を凝らして耳をそばだてた。

 「そもそも私が雷を落としたのには原因があるのだ。私のこの怪力の弟子は、苦痛に本当に耐えることができ、重労働のできる大丈夫なのだ。もし彼がこの度の九回に渡る苦痛と打撃に堪え得れば、即身成仏となり、二度と六道輪廻には入らず、その苦しみを受けない」

 師父は、ウェンシーをちらりと見て続けた。「これが彼に難行苦行をさせた理由だ。それで多くの工事をやってもらったのだ。それによってはじめて、以前にやった悪行の業を消滅させることができたのだ」

 「彼の罪業は既にかなり軽くなった。しかし、完全には消滅していない。なぜなら、アバ・ラマが灌頂をしてしまったからだ。それで、もう私は以前のように彼に苦痛を与えることができなくなり、私は怒ったのだ。しかしあなたたちはわきまえていなくてはならない。私の怒りは、一般人のものとは違うのだ。これは全部、法からきているものだ。それゆえ、あなたたちは良くない考えを抱いてはならない」

 「師母は情けが過ぎて、私信を偽造したので、怪力君の業は完全には消えなかったが、八回に渡る大きな苦行と無数の小さな難行で、彼の業の大部分が消滅した。今日から、私は彼に灌頂をし、最も秘密とされている口訣と心要(※1)を伝え、修業期間中の食料を提供して、彼の修煉環境を保証してあげよう。怪力君!今日は本当にめでたい日になったな」

 ウェンシーは座中にあって、まるで夢の中にいるような気分になり、眼前の出来事がまるで信じられなかった。彼は、無限の喜びが心の底から湧き出てくると、嬉しくて何が何だか分からず、涙がとめどもなく流れてきた。彼は泣きながら跪き、師父を礼拝した。

 座中の人たちは師父の話を聴いて、忽然として大悟した。師父が元来、怪力君にあのような不合理なことをしていたのは、彼の修煉を成就させるためであったのだ。平時にあっては慈悲深い師父が、怪力に会うと人が変わってしまったかのように豹変したのは、元来彼の罪業を消滅させるためであったのだ。師父のこの話を聴いて、それぞれが違う悟りを抱き、別個に口に出して討論した。

 「ああ!元来がこのようなことだったのか。われわれが日常で出遭う良くないことは、却っていいことなのだ。私たちが不快に思うことや、いやなことは、その実いいことなのだ」

 「そうか、よくないことに出会って、それがその時に不快であっても、事後には却って身体が軽くなり、心もちもよくなるのは、罪業が消滅しているからなのだ」

 「ああ、このように言うこともできる。良くないことに出会ったとしても悲しむことはない。後によくなるからだ」。皆は聴いて破顔一笑し、ウェンシーが苦しみを嘗め尽くした末に楽が来たのを見て、皆がそれを祝い、心情も愉快になった。

 しかし、私信を偽造したことは反対に遺憾なことだった。こうしたことは心がけの上で用心しなくてはならない。無論相当な原因と理由があったにせよ、嘘をついてはいけない。その他、自分にとって好都合なものや人は、その実良しあしは反対で、実際は自分にはよくないことなのだ。そしてよくないように見えるものが、その実自分にはよきことなのだ。さらに重要なことは、修煉上においては、師父がどのような話をしようと、どのような要求を出そうと、絶対に疑ってはならないのだ。

 もし私信の偽造がなかったならば、ウェンシーはまだ工事を続けていて、佛になる日はそう遠くなかっただろうし、以降の長い修行の道を歩むこともなかったであろう。苦を嘗めることがなくなり、業を消すことができなくなったからだ。私信を偽造したがために、ウェンシーの修煉故事はまだまだ続くことになる。

(※1)心要…仏法修煉上の、法理に照らした心の在り様、心掛け。

(続く)

(翻訳編集・武蔵)

転載 大紀元 https://www.epochtimes.jp/p/2021/04/71633.html

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