開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い始めました。以前東京の家に住んでいたときは、祖母と姉がいましたが、いま母はお腹が日に日に大きくなり、赤ちゃんを産もうとしています。園子姉さんがいないため、私が長女の役目を果たし、母を手伝って弟たちの面倒を見なくてはなりません。お姉さんとしての責任感と自信が一気に強くなりました。
しかし、私の心も複雑となり、母のことをすごく心配するようになりました。もし、東京へ帰る途中で赤ちゃんが産まれたらどうしようとか、途中でバス、列車、船を転々と乗り換えなくてはならない、船の上で出産すれば、ベッドも浴室もあるから、それが一番望ましいとか、いろいろと悩みました。今振り返ってみれば、私の心配通りになっていたほうが、むしろ我が家にとって最善の結果だったはずです。ただその時は、天が私に試練を与えるための暴風雨がすぐにもやってくること、そして私の如何なる心配も無用であることなどは、知る術もありませんでした。
ある日曜日、私は母に、「母さんはいつ弟を生んでくれるの」と聞きました。私のこの突然の質問に、母は一瞬びっくりした様子でしたが、すぐに優しく「秋の収穫が終わった11月よ」と答えました。母は、「お正月前なのね。もし東京に戻ることができて、兄弟も一人増えれば、きっとおばあちゃんが喜ぶわね」という私のことばに微笑むと、畑に行って黙々と農作業を始めました。私はそのとき、長女としての自覚が芽生え、母の畑仕事を手伝わなくてはならないと思い、母の後を追って、一緒に野菜の苗を植え始めました。
私は一つ一つ掘った穴に苗を入れる作業をしました。母にとっても、生まれて初めての農作業でした。母は農業訓練を数週間受け、指導員から苗の栽培法を教わっただけでした。ちょうどその時、指導員の盛田さんが我が家の野菜畑を通りかかり、実際にやって見せてくれました。母は非常に頭がよく、すぐに要領を掴みました。私は初めて農作業に参加しましたが、母の手助けをすることができました。私が苗を入れる籠を持ち、苗を穴に入れ、母が土をかぶせました。植え終わって振り返ってみると、苗は元気のない様子で頭を垂らしていました。母は、「農業指導員が言っていたんだけど、数日経てば元気になるそうよ。雨が降れば、すぐによくなるわ」と言いました。
偶然にもその日の夜、雨が降りました。翌日私が学校に行くときもまだ降り続いていました。
普段、私は雨の日が嫌いでした。ここの道路は東京と違って、雨が降ると靴に泥がいっぱい付いてしまいます。足を上げるのも大変で、時には靴が脱げてしまい、足が泥まみれになります。
しかし、その日の雨は、タイミングがよかったので、私は感激していました。雨のおかげで母と一緒に植えたトマト、なすの苗はすぐに元気になるはずです。放課後、天気も晴れ、太陽も顔を出しました。私は直接家に帰らずに、野菜畑に駆けつけてみると、遠くから苗が整然と直立しているのが見えました。雑然としていたのがきれいな列をなしており、私はとても嬉しく感じました。初めての母のお手伝いが上手くいき、一本の苗も無駄にしなかったからです。すぐにでもこのことを母に伝えれば、母もきっと喜ぶはずだと思いました。
野菜畑から立ち上がろうとしたとき、足が泥に深くのめり込んでいるのに気がつきました。ずいぶん苦労してようやく家にたどり着きました。母が私の泥足をみて、どこに行ったのかと聞いてきました。畑で昨日植えた苗を見てきたと言うと、母は、「雨の日や雨の直後は田んぼに入ってはいけない」と教えてくれました。それ以来、私は、農業の知識を少しずつ身につけ始め、放課後はいつも母の手伝いをし、野菜畑の仕事に参加するようにしました。
間もなく、畑の苗が成長し、花も咲き始め、小さなキュウリが実り、ナスも形が整い、トマトは赤くなりました。その年の夏は、雨が特に多く、気温も高かったので、農作物の成長が非常によかったのです。開拓団の広大な畑の作物も収穫間近となっていました。
私の3人の弟は普段本部の幼稚園に入園していました。そこの先生は2人しかいなくて、十数人の子供の面倒を見ています。一番上の弟「一」は翌年の春に小学校に入学する予定でした。母は、一には東京で教育を受けさせると言っていました。私と弟たちは、お正月に東京へ戻るのを楽しみにしていました。
(つづく)