(一)皇帝に城門を開かなかった城門管理者
中国の東漢時代、夜になると城門を開けてはいけないという法律があった。漢光武帝建武十三年(紀元三十七年)、光武帝劉秀は大勢の衛兵たちと京都洛陽の郊外に猟に出かけ、夜遅く戻って来ると、洛陽城の上東城門が閉まっていた。そこで、劉秀は衛兵たちに城門を開けるよう命じた。
上東城門の管理者・郅惲(シツウン)は「我が国の法律では、夜に門を開ける事は禁止されています」と答えた。
劉秀はやむなく自ら門の近くに行き、「私は光武帝だ、早く門を開けなさい」と言った。郅惲は、「暗くてはっきり見えません。安全の為、門を開けることはできません」と答えた。
劉秀は仕方なく上東城門を離れ、東側の中城門に行くと、開けるよう命じた。管理者は皇帝であることを知ると、躊躇なく門を開け、恭しく一行を迎えた。
次の日、郅惲は「一国の君主として、率先して法律を違反してはいけません」という批判の上書を奉った。
皇帝は上奏文を見ると、郅惲が法律を厳格に執行したことを賞賛し、彼を咎めることなく、沢山の褒賞を与えた。一方、上役に迎合し、法律を軽視した中城門の管理者は厳重な処罰を受けたという。
(二) 法理に従い、権力に屈服しない
東漢光武帝時代、光烈皇后・陰麗華には陰就という弟がおり、弟は信陽候に封じられた。陰就の下には馬成という居候が彼の権勢を笠に着ては悪事の限りを尽くし、洛陽令の虞延によって逮捕された。
馬成が逮捕されたことが陰就の耳に入ると、彼は馬成の釈放を要求する手紙を虞延宛てに送ったが、彼は釈放するどころか、さらに厳重な処罰を与えた。陰就の手紙が届く度に竹の棒で馬成を200回打つ刑罰が加えられた。
陰就は腹を立て、「虞延が馬成に罪をなすりつけ、難癖をつけたのだ」と光武帝に訴えた。
光武帝は自ら囚人たちの様子を見るために、虞延府に向かった。虞延は全ての囚人を連れ出して、二列に並ばせた。案件の取調べを受けている者は東の列に、既に判決が下された者は西の列に並ぶよう命じた。
馬成は隙を狙って東の列に行こうとしたが、虞延に気づかれ、ぐいと彼を掴み、怒鳴りつけた。「お前は悪事の限りを尽くしてきた。逃げおおせるものではない。刑罰はまだ終わってない。法律に基づき、引き続き処罰してやる」
馬成は「無実の罪だ」と叫んだ。光武帝の護衛が矛で虞延を刺そうとすると、虞延は大声で怒鳴りながら、睨みつけた。
この光景をみて、光武帝は虞延が公正無私に法律を執行したことを理解した。馬成に対し、光武帝は「お前は法律を犯した。罰を受けるのは当然だ」と言い残し、衛兵たちをつれて宮に戻った。
数日後、虞延は法律に基づき馬成を死刑に処した。その後、皇后や皇太后の親戚たちは言行を慎むようになったという。
『後漢書・虞延列传』より
(翻訳編集・蘭因)