宋朝の蘇軾による『東坡志林・梁賈説』には、「富貴に居る者は、糟糠を易からず」とある。そして明朝の不詳の作者による『鳴鳳記・鶴楼起義』にも、「私の昔の糟糠を土苴(つちづと)のごとく捨てる」とある。この文中の糟糠とは、妻を指しており、妻の別称である。
それでは、どうして古人は妻を「糟糠の妻」と言ったのであろうか?
糟とは、酒を醸造する過程で濾過して残された残渣であり、酒かすのことである。『説文解字』での記載によると、「糟とは、酒かすなり」とある。糠とは、イネ、麦、アワなどの実からはげ落ちる外皮を指す。例えば米ぬか、麦糠などのようなもので、『玉編』の記載には、「糠とは元来糠である」とある。また『説文解字』によると、「糠とは、穀物の皮なり」とある。別に『玉編』によると、「糠とは、穀物の皮なり」とある。
ゆえに酒かす、穀物の皮とは粗悪な物であり、古代では貧乏人が飢えを凌ぐために口にしたものであった。例えば、『漢書、食貨志上』の記載にあるように、「庶民の富む者は、巨万を積み、貧者は糟糠を食する」とある。また『史記.第129巻.貨殖伝』によると、「原憲は糟糠を厭わず、貧しい巷に隠す」とある。ここから知れるように、糟糠とは元来が粗末な食物の喩えであった。
「糟糠の妻」が妻の別称として用いられたのは、『後漢書、第26巻.宋弘伝』から出たものである。「貧賎を共にした臣下を忘れるべからず。糟糠の妻は別れるべからず」とあるが、それは後漢の光武帝と彼の大臣の宋弘の故事である。
宋弘は、後漢の初め京兆の長安の人であった。光武帝の劉秀が即位して、宋弘は太中大夫に任ぜられ、後に大司空に昇進した。彼は相前後して朝廷のために馮翊、桓梁などの賢人30数人を推薦して、ある官僚は相あるいは公卿の位にも至った。宋弘は清廉潔白に公の務めを果たし、率直に諫言をしたため、光武帝から重んじられ、後に宣平侯に封じられた。
光武帝の姉の湖陽皇女の夫が死亡した。ある時、光武帝は湖陽皇女と一緒に宮廷内の大臣について討論した。光武帝は機会を見て姉の意見を伺ったのであった。皇女は言った。「宋弘には風格があり、品徳と才識が共に優れ、宮廷内には彼と肩を並べられる人物はいません」。これはまさに光武帝の気持ちにぴったりと符号していた。
後に、光武帝は宋弘と謁見し、湖陽皇女には屏風の後に座ってもらった。光武帝は宋弘にこう質問した。「俗に、人は出世すると交わる友を換え、富貴になると妻を換えるというが、これは人の普通の情なのか?」宋弘は答えた。「臣が聞いたところでは、貧困の時に交わりのあった友は忘れてはならず、苦労をともにした妻は捨ててはなりません」。そこで、光武帝は湖陽皇女に対して言った。「これではことは台無しになった」
糟糠は元来、貧乏人が飢えを凌ぐために口にした粗食であった。故に「糟糠の妻」とは、人々が貧乏時代に苦労をともにした妻を指すようになった。糟糠、糟糠の妻とは、苦労を共にした妻のことであるが、そこから糟糠、糟糠の妻を捨ててはならないとの古人の教訓も伺えるのであろう。
(翻訳・太源)
大紀元より