後漢の頃のお話です。廬江県(現中国安徽省合肥市)出身の毛義(もう・ぎ)と東平県(現山東省泰安市)出身の鄭均(てい・きん)は二人とも誠実で温厚な人物であると評判でした。
ある日、毛義の人柄に憧れていた張奉(ちょう・ほう)という男は、故郷を離れて彼の元を訪れました。張奉が着いた時、毛義は自分を安陽の長官に任命するという文書を読んでいる最中でした。任命書を読んだ毛義は、思わず笑みがこぼれました。毛義の笑みを見た張奉は、毛義が仕官することに執着する品の無い人であると勘違いし、失望してその場を去りました。
数年後、毛義の母親が亡くなると、毛義は朝廷に辞表を提出しました。皇帝は毛義を引き止めるために彼を太守に昇進させましたが、毛義は固く辞退しました。
この話を聞いた張奉は、自分が毛義に対して勘違いしていたことに気付きました。「君子の度量は、平凡な俗人には推し量ることができない。当時、長官の任命を毛義があんなに喜んでいたのは、仕官に興味があったからではなく、病気の母親を養うためだったのだ。人を誤解するのは簡単だが、真意を知ることはとても難しい」。それ以来、彼は毛義に対してより敬意を抱くようになりました。
一方、東平県出身の鄭均の兄弟は、地元で下級役人を務めていました。兄弟はいつも賄賂を受け取り、不正のルートで便宜をはかっていました。鄭均は幾度となくそれを止めるよう説得しましたが、兄弟は耳を傾けようとしませんでした。
見かねた鄭均は、自ら故郷を離れて懸命に働きました。得た報酬を故郷に持ち帰って兄弟に渡して言いました。「お金は使い果たしても、また稼ぐ事ができる。しかし、汚職をして捕まれば、一家が駄目になる。お金が足りないなら、私が懸命に働いて援助をするよ」。その言葉を聞いた兄弟は反省し、心を改める決心をしました。その後、兄弟たちは汚職をすることも止めました。
鄭均はその後、尚書(上奏を取り扱う役職)の位に就いていましたが、退職を早めて故郷に戻り、兄弟と共に勤勉に働き、質素な生活を送りました。
当時の漢章帝である劉炟(りゅう たん 75年-88年在位)は、毛義と鄭均の人格を賞賛し、トウモロコシ一千石(約6トン)を授けました。また、他の官吏たちにも二人を手本とするようにと伝えました。
(翻訳編集・海田)