白日依山盡
黄河入海流
欲窮千里目
更上一層樓
白日(はくじつ)山に依(よ)りて盡(つ)き。黄河(こうが)海に入りて流る。千里の目を窮(きは)めんと欲し、更(さら)に上る一層の楼。
詩に云う。この鸛鵲楼(かんじゃくろう)を登りながら、大いなる風景を眺めると、今まさに、赤く燃えるような太陽が遠くの山嶺に沈もうとしている。眼下に見える黄河は、北からの水流の向きをここで変え、はるか東の海へと流れ去る。私は、さらに遠く千里の先まで見たい思いにかられて、もう一層上へと階(きざはし)を踏んでいく。
作者は王之渙(おうしかん 688~742)であるが、人物の素性はよく分からない。官人としては全く出世しなかったらしく、ほとんど無位無官だが、後世に残された6首の詩が突出して有名であるため、盛唐を代表する詩人の一人に数えられている。
承句の「黄河」と対をなす「白日」の白は、色彩のホワイトではない。あえて白日に意味を求めるなら「煌々と明るい太陽」であろう。ただし、この場合は、頭上に高い昼間の太陽ではなく、山の辺を赤く染めて燃え尽きようとする、落日の輝きを放つ太陽である。
鸛鵲楼のある場所は、今日でいう中国山西省永吉市。16世紀の明代まで往時の古楼は存在したらしいが、黄河の氾濫により倒壊する。現在は、美意識のかけらもない派手な商業施設が、その楼の名を掲げている。
いかに楼上とは言え、黄河が流れていく東の彼方に本当の海が見えるはずもないが、それを文学として結実させたところにこの名対句の生命がある。
後半の二句「欲窮千里目、更上一層樓」は、その部分だけ切り取っても有名であり、俗っぽい比喩として、自分の向上心を誇示したいがために政治家などが引用するが、それはやめたほうがいい。この詩の圧倒的な見事さは、前半の二句にこそある。
我が日本にも、大自然を詠じた詩歌はある。古くは『万葉集』の柿本人麻呂「東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて、かへり見すれば月傾きぬ」。あるいは松尾芭蕉『おくの細道』の「荒海や佐渡に横たふ天河」。
しかし、雄大さにおいては漢詩の「登鸛鵲樓」には遠く及ばない。中国と日本では、その大自然にしてもスケールが違うのだ。もちろん、もっと細やかな自然描写であれば、『古今集』の紀貫之「袖ひちて結びし水のこほれるを、春立つけふの風やとくらむ」など、和歌も表現において引けを取らない。
どちらを好むかは人による。日本人にとっての「漢詩の楽しみ」は、ひとえにその雄大な風土を想像することにある。江戸期以前の日本人は、ゆたかな想像力のみで漢詩の風景を見ていた。そういう鑑賞の方法も、なかなか捨て難い。
(聡)
転載 大紀元 エポックタイムズ・ジャパン
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