【脱党支援センター2020年10月26日】
「いつかは腹いっぱい、飯を食いたい」。これこそ、父が果たせなかった悲願であった。
1975年、我が家は父を失うとともに、換金できる物は全て失ってしまった。元々びた一文もないほど貧しかった家に残されたのは、多額の借金である。それはまさに、母の全てに襲いかかった巨大な災難のようであった。
父の死後、38歳の母はすさまじい悲しみを背に、手探りで我々7人兄弟を育てた。それは母の一生で、最も困難な時だったといってよい。私たち兄弟の記憶では、空が白んで自分たちが起きると、母の寝床はいつも空だった。母はきっと、「自分が朝から晩まで目いっぱい働かなければ、この一家は生きて行けない」と確信していたはずだ。夜、自分の指先が見えないくらい真っ暗になると、母はようやく帰ってきた。最も印象的だったのは、毎晩仕事から戻ると、決まって我が家の玄関口で一休みする母の姿だ。このとき、母は一言も発しない。一日働いて疲れきったためだと、みな知っていた。母は腰を下ろし、しばらくしてからおもむろに立ち上がり、疲労困憊(こんぱい)した体を引きずるようにしてご飯を作り始めるのだった。
父が逝った直後の半年、母の心は極度にもろかった。私の印象では、父の死後丸1年経ってから、母はたくましくなって行ったようだ。しかし、初めの半年間は、いつでもどこでも母の嗚咽や慟哭が聞かれた。心引き裂くようなその叫び声は、食事の準備や食事中、あるいは仕事中など、いつでも起こるのだった。しかも、母の悲鳴につられ、いつも家族全員がたちまち泣き出すのだ。すると、近所のおじさんおばさんがなだめに来てくれる。当時私はまだ小さかったが、悲しみに打ちひしがれる母をしばしば目にするのは、どうしようもなくつらかった。
(続く)