【脱党支援センター2020年10月14日】
1.無神論を宣伝する
数千年来の人類の歴史は、多種多様な文化体系を形成し、その社会制度体系とともに共存してきた。すべての体系の中で、人類の窮極的な価値観は皆、神霊や天意の形で、世俗の行政権力を超越して存在した。国王と皇帝の上には必ず、神あるいは天の認証、保護監督と導きがあり、これを 「王権の神授」 と呼んだ。このような体系の中で、神霊と天意は、世俗の価値観を窮極的に認定し審判を下す者として、世俗の最高権力に対して判定を下す効用を持ち、世俗の最高権力が無限に膨脹する傾向に制限を加えた。
同様に、日常的な世俗生活の中でも、神霊と天は極めて重要な役割を演じてきた。人類の行為を規範し、その私欲の膨脹を制限する重要な作用を発揮し、世俗の利益を超越する形で存在した。
歴史をあまねく見れば、文化の中に 「敬天(天を敬まう)」、「神権(神霊の権威)」の要素を含むというのは、世界のどの地域でも見られることで、現代西洋社会の民主制度の中でも、随所にキリスト教文化の「神」の形象が見られるのである。
しかし、共産党は、伝統的な有神論は自らの権力基盤の合法性に対抗するものと考えた。大多数の国の教育体系の中では、神の概念に対して中立的な態度を取っており、神の存在を承認も否定もしていない。実際、科学は神の存在を否認していないし、無神論の正当性も証明していない。
共産党が無神論を宣伝するためのいわゆる「科学」的な基礎となっている「進化論」も、いまだ実証を経ていない一種の仮説に過ぎない。そうでなければ、今日の進化論学者たちは、どうして今なお懸命に証拠を捜し続けているのだろうか。
全ての超自然的な存在を完全に否定する 「無神論」のような学説を、国全体の思想体系にまで上昇させたのは、執政の合法性を捜し求める共産党統治の国家だけである。
そのため、共産党の下では、全知全能の神はいなくなり、ただ大きな分子が無作為にぶつかって生まれた生命だけが存在するのである。それが数十億年を経て人に「進化」し、その後ジャングルの法則である弱肉強食に頼り、階級闘争を経た後、奴隷社会、封建社会、資本主義社会から「進化」して、社会主義社会に至ったというのだ。
この虚言だらけの理論は、どうして共産党が執政しなければならないかという問題には答えることができたとしても、社会、歴史と政権に対する伝統文化の認識とは、全く相容れないものである。
伝統的な正教は皆、人々に心を磨いて善に向かい、天地自然と調和することを教えるが、共産党はむしろ天、地、人と闘争するよう仕向ける。正教を信仰する人は、天国世界の永遠な幸せを追求するのであって、世間での光栄と享受を重んじないし、最終的には生死までをも看破する。しかし、共産党はむしろ弾圧と殺戮の手段で民衆を脅かし、物欲で民衆を買収する。
正教が人々のために樹立した善悪の基準は、共産党が天に逆行しているということをよりいっそう際立たせている。このため共産党は、信仰の存在事体を自らの統治に対する最大の脅威であるとみなした。
レーニンの師であり、ロシア・マルクス主義の理論家であるプレハノフが 1918年4月の臨終の間際に残した言葉が、ソ連崩壊後の 1999年 11月に発表された『政治遺言』でこう記されている。「レーニンは、ロシア人の半分を幸せな社会主義の未来に進んで行くようにするために、その他の半分を殺戮してしまうだろう。この目的を達成するためなら、彼はどんなことでもやるだろうし、もし必要なら、魔物とも同盟を結ぶであろう」。
そのため、世俗、権力、利益を超越した原則と価値観は消失し、残ったのは赤裸々の権力と利益だけであり、目的のためなら手段を選ばないのであった。80年代初頭、中国はかつていわゆる 「真理の討論」を展開したことがあった。彼らが論争した要点の中の一つは、真理、人道主義、美しさ、善良などに階級的属性があるか否かというものだった。
バリバリの共産党員の目からすれば、ひたすら共産党の利益にかなうことだけが、鼓吹して推し進めるに値する道徳なのであって、そうでないすべてのものは打倒されなければならない系列に属するのである。
無神論を宣伝するのに最大の障害になったのは、各種の宗教信仰だった。そのため、中共は政権を奪取した後、 「反革命会道門」を鎮圧するという名分で、仏教、道教、キリスト教、カトリックなどの大規模信仰団体に刀を振り上げ、同時にスパイをその宗教団体の内部に送り込んで、協会を設立させた。これは宗教経典を歪曲して信徒たちを惑わせる一方で、中共指導層に対する忠誠を宣布させ、中共の地位を宗教信仰の神を凌ぐ位置に置こうとするものであった。
人生には、3つの大きな問題が存在する。それは、「私は誰であり、どこから来て、どこに行くか」ということで、伝統的な信仰には、これに対する明確な解答がある。神が人を創造し、前世があって今世があり、そして天国と地獄があるというものだ。
ところが、無神論では、「神が人を創った」ということが「猿から人に進化した」「労働が人を創った」ということに変わり、「前世と今世」は「新しい社会と古い社会という二つの世界」に変貌させ、「天国と地獄」は「パンを描いて虚飢を満たす」式の 「共産主義」へと変貌させた。
伝統的な信仰では、「頭上三尺に神霊あり」といって、神霊たちは超常的な能力で、人を見守り保護してくれている。中共は人々の信仰を破壊した後、絶えず自らの 「偉大、栄光、正統」さと「民衆を勝利から別の勝利へと導く」ということを吹聴してきた。宗教には救世主がいるが、中共は救世主などおらず、自分たちこそが「人民の大きな救い手」であるとした。
正統な信仰は安定した特性を持つ。キリストは、「天地が廃れるとしても、私の言葉は廃れない」と言い、中国人は、「天は変わらず、道も変わらない」と言った。そのため、正教を信仰する人は、その経典に基づいて善悪を判断したわけで、その善悪の基準は安定したものであった。
ところが、共産党は、自分たちの政治的な必要によって、宣伝したばかりの善悪の基準を絶えず変えたり覆したりしてきた。共産党の価値観の中で一番核心的なことは、まさに権力と利益であり、もし共産党権力の統制下になければ、あるいはそれの臨時的な利益にでもかなわなければ、すべて「反動」と言うレッテルを貼られ、排除されてしまう。
例えば、スターリンはロシア共産革命のリーダーの一人であるトロツキーを排除し、毛沢東は共産党リーダーであった劉少奇を排除したが、これは決して価値観の問題ではなく、権力の帰属の問題に起因しているのである。中国の文化大革命の期間に、大量の「マルクス主義小グループ」「共産主義小グループ」等の理論組織が反動組織として宣布された。後に有名になった経済学者・楊小凱もまたこれらの理論グループに参加したために、十年の刑罰を下された。
最近中国で発生した事件も、同様にこのような軌跡を辿った。例えば、2001年中共江西省委員会は、農民の負担を軽減させるための一冊の中共中央文件集を反動出版物だと宣布して、全て回収して焼却処分にするよう命令を下した。その理由は極めて簡単だ。それらの文件は、江西省地方政府が農民たちを抑圧する政策を執行するのに不利だったからである。
「資本家を消滅する」から「資本家を入党させる」へ、「人民公社」から「農家生産請負制」へ、「私有制を消滅する」から「私営経済を大いに発展させる」へ、「自由に意見を述べる」から「論争しない」へ、「鍵となるのは農民の教育」から「貧しい農民の再教育を受ける」へ、「(党中央に誓ったことを)永遠に翻さない」と言っていた鄧小平が毛沢東の死後すぐにその言を翻した、毛沢東の側近が毛の警護室長によって連行されて罪人になった、「資本主義の尻尾を切る」が「家を起こして金持ちになる」に変わった。これら一つ一つの改変は、いずれも元々の政策が袋小路に入ってしまい、そのまま続ければ中共自らの安全が脅かされるようになったからである。
これはまさに、イギリスの著名な作家ジョージ・オーウェルが言ったこととそっくりだ。「全体主義国家の特徴は、思想を統制するが決して思想を固定させることができないという点だ。それはわずかの疑心も許さない教条を確立するが、日々それを修正する。それが教条を必要とするのは、臣下と民たちの絶対的服従が必要だからであるが、変化を免れることはできない。何故ならば、それは権力政治に必要だからである」。
共産党の体系の中で、人間性と神性の連携は完全に断ち切られ、世俗権力を超越したこれらの判定機能は剥奪され、原則と道徳の認定と審判は、世俗権力自らの一部分になった。共産主義者たちは、こうしなければ本当に確固たる共産党政権を確立することはできないと考えたのである。
しかし、このような価値観に支えられた人類の行為と、人間の本質の弱点から現れ出た劣悪な部分は、いやがおうにも徐々に拡大され、最終的には唯一無二の党文化体系に変わっていくのである。
(続く)