【脱党支援センター2020年8月3日】
中国山東省出身の人権活動家界立建(かい・りっけん)さんは、市民の正当な権利を求めて陳情したことで、中共当局に複数回にわたり拘束され、精神病院にまで入れられました。のちにチベット経由で中国から脱出しましたが、中共に追跡され、途中でパスポートの没収、暴力的拉致など、紆余曲折を経て、最終的にアフリカ経由で米国にたどり着きました。報道をご覧ください。
界立建さんは山東省高唐県の出身です。父親は生真面目な農民でしたが、近隣とのトラブルで、村の共産党書記に濡れ衣を着せられ投獄されました。
親子二代の30年にわたる陳情はなしのつぶてで、結局息子の界立建さんを民主を勝ち取る道へと突き動かしました。界さんはのちに、何度も拘束され、精神病院にまで入れられました。
一回目の拘束は2005年で、界さんはまだ未成年者でした。2007年、10月1日の中華人民共和国建国記念日の期間中陳情に行ったところ、済南市の精神病院に送り込まれました。
陳情を通して、界さんは多くの陳情者や人権派弁護士と知り合いました。そして広東省や香港で、官僚の財産開示を求めるプラカードを掲げたり、天安門事件の追悼集会に参加するなど、民主化運動に参加し始めました。
2017年には、7月1日の中国共産党創立記念日に乗じた香港の「七一デモ」に参加し、中央政府駐香港連絡弁公室の前で横断幕を掲げて抗議しているところを撮影されました。このことにより、家族がたびたび嫌がらせを受け、彼自身も一か月後に高唐県の留置所に送られ、拘束されました。留置所で界さんは半月以上、窓の鉄格子に足錠をはめられた足を吊るし上げられ、降ろされたときには歩行不能になっていました。足首も鉄の鎖にこすられ、血と肉の見分けがつかなくなっていました。
2018年にはプラカードを掲げたことで、拘束8回、逮捕2回、精神病院での監禁2回に直面しました。彼は、強制立ち退きに対し陳情を行った女性が不明薬物を注射され、スタンガンで拷問され、精神が崩壊していく過程を目の当たりにしました。彼自身も殴打され、不明薬物を注射され、精神崩壊に至りました。
2018年末、界さんは深セン市の裁判所で二人の人権派弁護士に声援を送り、プラカードを掲げた時に司法警察と衝突が発生しました。高唐県政府は彼に、早く地元に戻らないとネット追跡を行うと警告しました。家族からも、地元の国内安全保衛局と公安警察が頻繁に家に押しかけるようになったとの知らせがあり、状況は以前のように簡単にいかなくなりました。
ネット追跡から逃れるため、界さんはチベットから出国し、旅行名目でアフリカに入国しました。
民主活動家 界立建氏
「もし私が逃げなければ、彼らに捕まったら、以前のように精神病院に送られるだけでは絶対済まない。精神病院に監禁されたとしても、1〜2年隔離されても出てこれないだろう。その時になって、以前にも1〜2か月監禁され、出てきた時の状態といったら、例えば1秒で反応できるところを、私は2分かかって反応した。中で飲まされた薬は脳内の神経を完全に破壊した」
ケニアからウガンダ、そしてルワンダ、タンザニアと、界さんはアフリカの複数の国を経由しました。しかし、南アフリカのビザ申請期間中、界さんはタンザニアの中国旅行代理店の罠により、パスポートが中共大使館の手にわたり、中国本土へ送還する飛行機に乗せられました。
途中、飛行機の乗り換えの際に、界さんは中共の監視員の目から逃れるため、命懸けでトイレに行き、ハンドソープを飲み込みました。空港の救急隊員の助けの下、彼は病院に搬送され胃洗浄による応急手当てを受け、中共の監視から逃れることができました。
民主活動家 界立建氏
「私は崩壊しそうだった。だけど私は思った。中共匪賊が私にしてきた嫌がらせや迫害、これら全ての罪と悪事に対して、私は必ず最後の一息を残して彼らを清算する。この最後の一息がずっと私を支えてきた」
後に、エチオピアのある官僚が界さんの身分証明書を取り戻してくれましたが、パスポートは中国領事館に没収され無効となったため、旅行証明書に取って代わられました。
界さんはこの旅行証明書で、引き続きマラウイ、ジンバブエと足を運び、その後ボツワナ、ナミビアへと向かいました。そして2019年8月、界さんは米国の旅行ビザを取得しました。
米国による入国拒否のリスクを下げるため、界さんはもう数か国、乗り継ぎをすることを決めました。このようにして、彼はブラジルのリオデジャネイロ到着しました。
しかし中共当局はすでに現地のWeChat (ウィーチャット)グループで、界さんの顔写真を拡散していました。中華街で両替をしている時に、十数人が彼の頭を血まみれになるまで殴り、トラックに連れ込もうとしたところを、運よく現地の通行人に助けられ、一難を逃れることができました。
民主活動家 界立建氏
「もしブラジルのリオの人たちが出てきて取り囲み、この事に非難の声をあげていなければ、私は彼らによって車に連れ込まれていただろう。そうなれば私は今はもう米国にいない。おそらく中共の刑務所で残酷な迫害を受けている。失踪したことになっているだろう」
界さんはその後、さらに一年をかけて、アルゼンチン、チリ、ボリビア、コロンビアなどの国に渡り、最後にようやく米国に到達しました。
中共の罪を暴露するという最後の一息にかけて、界さんは命懸けの逃亡劇を終えました。界さんは国内外の識者に、団結して中共を終焉させるようにと呼びかけています。
転載新唐人