廉頗(れん ぱ)は、中国戦国時代の趙の国の大将軍で、守備は固く、攻撃すれば必ず功績をあげるといわれた。当時の強国であった秦国でさえ彼を恐れていた。
趙の恵文王が即位して間もないころに、秦国は東に勢力を拡大しようとしていた。しかし、趙国が勢力拡大の障害となっていたため、秦王は何度も趙国に派兵し攻めて行った。しかし、いつも廉頗によって敗戦させられていた。秦王はやむなく策略を変更し、各国とそれぞれ盟約を交わす「連衡の策」を実行せざるを得なかった。
秦王は趙王と講和しようと考えていた。趙王と藺相如が一緒に講和に赴くことがわかると、廉頗は趙王に、「今回の日程は長くて30日。もし30日経っても大王が帰って来なければ、王太子を国王として擁立することを許可していただきたい。そうすれば秦国は趙国を脅迫することができないでしょう」と言った。廉頗の将軍としての風格と綿密な計画により、趙王は安心して秦王に会いに行くことができた。
当時、秦国以外の六国の中では、斉国が最も強大で、繁栄していた。にもかかわらず、廉頗は軍を率いて斉国の九つの都市を攻め落とした。その次の年も廉頗は魏国を攻め、大勝利を収めて戻ってきた。趙国はこれにより一躍東方六国のトップに立った。秦国はその後の十年間、軽率な攻撃を敢えてせずじっと機会を窺っていた。まさに廉頗を恐れていたからである。
三甲村と換馬村
趙の孝成王が即位すると、秦王はまたしても派兵して趙国に攻めてきた。廉頗が趙国の軍隊を統率し、長平で秦軍を阻止した。その時、秦軍はすでに南の野王を打ち取り、北の上党を奪い取り、長平の南北の関係を断ち切り、士気は十分旺盛だった。一方、趙国の軍隊は行軍が困難であっただけでなく、兵力も劣勢で、形勢上不利な立場にあった。この状況に直面した廉頗は砦を築き、あくまで守りの戦略をとり続けた。秦軍は何度も戦をしかけたが、廉頗は陣地を固めて外に出なかったため、秦軍は戦うことができず、手の打ちようもなく次第に気力を失っていった。
秦国は迅速な勝利は無理であると判断し、すぐに「離間の策(相手を仲違いさせること)」を用いて、「秦国の一番の懸念は、趙国が趙括を廉頗と交代させることだ」というようなデマを到る所で流した。趙王は勝利を焦る気持ちが災いし、敵の策略にまんまと嵌まり、廉頗は戦いに怯えているのだと思い込み、廉頗の代わりに趙括を任用した。藺相如は「机上の空論しか知らない趙括では重要な任務を担うには相応しくない」と懸命に趙王を諫めたが、趙王は藺相如の説得を聞かないばかりか、独断専行してしまった。
廉頗は解任される直前、再三趙括に言い聞かせた。「秦軍は遠方から急襲し、有利な立場にある。我々は守りを中心とすべきである」と言って守勢図を趙括に渡した。しかし、趙括は傲慢無礼にも全く廉頗を相手にしなかった。廉頗はかんかんに怒りながらも総司令官の印章を趙括に渡すやいなや甲冑を脱ぐことも忘れて、馬にムチを当ててまっしぐらに趙の都である邯鄲に向かって行った。
ある村に通りかかった時、民衆が廉頗に向かって跪いてお辞儀をするのを見てやっと自分が兜をかぶり、鎧を身に着け、戦闘靴を履いていることに気付いた。それらの3つの武具を外した後も真っ直ぐ前に向かって馬を走らせた。後に人々はこの村を「三甲村」と呼んだ。しかし廉頗が3つの武具を身に着けていなくても民衆は依然として彼を引き留めようと道を遮った。人々は彼が有する白髪、白髭、白馬の「3つの白」を知っていたため、彼が誰であるかを見分けることができた。廉頗はついに長年、供に痛みを分け合ってきた、大事にしていた白馬に別れを告げ、別の馬に乗り換えた。後に人々は、彼が馬を乗り換えた場所を「換馬村」と名付けた。
秦国は策略が成功したと見て、全力を尽くして趙国を攻めてきた。趙括を射殺しただけでなく、趙国の兵隊40万余りを生き埋めにして殺した。長平の戦の後、秦国は趙国の都である邯鄲を包囲した。魏の信陵君が派兵して救援したおかげで趙国は滅亡を免れたが、これ以降国力は大きく衰えてしまった。
鄗代の戦い
長平での趙国の敗戦による大きな痛手により、燕国は乗ずる隙があると見て、執政の大臣である栗腹を将軍として兵を挙げて趙国を攻めた。趙国は改めて廉頗を将軍として用いて統率させた。この時の戦いがかの有名な「鄗代の戦い」である。
廉頗の戦法は、兵を2つのルートに分け、1つは楽乗が指揮し、西の燕軍に反撃を加えるルート、もう1つは廉頗自ら率いて、鄗城で燕軍の主力部隊を迎え撃つルートである。廉頗は兵士の士気を高め、敵と正面から衝突する戦術を用いて初戦で勝利を収めた。
引き続き廉頗は趙軍を率いて燕軍の主力を大敗させ、主帥の栗腹を斬殺した。燕軍は主帥を斬られたことによって総崩れとなった。廉頗は勝利の勢いに乗じて攻めていき、長距離を進軍し、燕国の都である薊城を包囲した。燕王はみるみる危険が迫って来るのが分かると趙国に5つの都市を割譲すると返答し、趙国に和解を求めてきたのだった。
(翻訳・夜香木)※看中国から転載