ぎくしゃく、という言葉がある。昨今のニュースなどでも、よく耳にする。私は記事のなかで使ったことはないはずだが、日本と隣国との関係がよろしくない時などに、往々にして無責任なメディアがこれを使う。二国関係が良好でないなら、その原因(原因は片側だけではない)を分析して正確に伝えるのがメディアの使命であろう。そこに、ぎくしゃく、などという機械の調子でもわるいような表現を使うのは、厳しく言えば報道する側の姿勢が問われるべきだが、本題から外れるので今は言及しない。
海を渡った人々
ぎくしゃくではなかった頃の古代的風景を、目を閉じて想像している。日本に最も近い国のことである。今日では朝鮮半島の南半分を大韓民国というが、とりあえず、その国名は意識的に遠いところへ置いておく。
はるかな昔、多くの人が海を渡り、大陸から日本に来た。朝鮮半島からの渡来人が最も多かったことは間違いないだろう。視界がよければ、半島の東南端から日本の対馬が見える。お互いに、喜ぶべき地理的条件だと思う。
「向こうへ行ってみようか」。そんな古代人の素朴な気持ちが高まって、粗末な舟をつくり、あるいは木材を結んで筏のような浮具をこしらえた。対馬の先には壱岐島があり、もうひと渡りすれば九州へ到達できることも、両岸の人々の往来から知り得ただろう。
海面の穏やかな日に、ほどよい風をとらえて、彼らは海へ出た。これから行く土地の人々、つまり古代の日本人が、渡海してきた我々に危害を加えないということも彼らは知っていた。そうでなければ、この歴史物語は成立しない。
今は単に(政治や経済活動とは関係なく、という意味で)ただ「生きる」という古代人の願望に寄り添い、空想上の光景を楽しんでいるのだが、果たしてなぜ彼らは向こう側、つまり日本へ渡ろうと思ったのだろう。
百済(くだら)が、7世紀に新羅(しらぎ)と唐に攻められて滅んだときには、多くの貴族クラスの百済人が日本へ亡命してきた。同様に、その後の歴史のなかで、高句麗(こうくり)や高麗(こうらい)に圧迫された新羅が衰亡し、やがて消滅したときにも多くの新羅人が日本へ逃げてきた。彼らは、琵琶湖畔の近江や関東の武蔵国に、原野をひらく開拓民として定住した。
ただし、当然ながら、そうした政変がおきる前の時代、つまり日本でいう飛鳥時代や奈良時代に至る以前から、朝鮮半島の少なからぬ人々が、それぞれに海を渡って日本に来ていたのである。
はたらきものの家畜
古墳時代(3世紀半~6世紀)の出土品である埴輪に、立派な馬具をつけた、見事な馬の埴輪があることはよく知られている。埴輪は、土器とちがって日常的な用品ではなく、権威の象徴として有力者の墳墓に並べ立てられるものである。その馬も馬具も、当時はよほど希少で、象徴的価値のあるものだったのだろう。
白亜紀などという地球上に恐竜がいた時代はともかく、その後に、日本が大陸から地理的に切り離されてからは、人も動物も歩いてやってくるというわけにはいかなくなった。
ここで唐突ながら、馬という、人間にとって大いに役に立つ、はたらきものの家畜のことを考えた。ウマの祖先に当たる動物の化石は日本でも発見されているようだが、犬のように小さくて、とても力仕事をさせることはできない。
先述の古代的風景の続きを想像すると、朝鮮半島の東南端から「向こうへ行ってみようか」と考えた人々は、傍らにいる愛馬の鼻をなでながら「おまえも一緒につれていくぞ」とつぶやいたはずなのだ。馬は、日本で繁殖させるために、可能な限り多くの頭数を運びたいが、舟は小さいものだった。ならば往復の回数を増やすしかない。
司馬遼太郎『街道をゆく 韓のくに紀行』で著者の司馬氏は、古墳時代に朝鮮半島から人々が日本へ渡った理由について、次のように書いている。
「朝鮮は水がすくない上に、しばしば大きな日照りがあり、そういう年の冬には、対岸へゆこう、という連中が多かったであろう。日本列島は幸いにも初夏に梅雨があり、初秋に台風があって、耕作のための水に不自由しない」
司馬氏によれば、渡海は日本に向かって風が吹く冬になされたという。夏には逆に、日本から朝鮮に向かって風が吹く。海を渡る人の動きは、すべて風向きにしたがった。
はるかな古代における人の営みは、政治でも商売でもなく、食べるための採取と農業しかない。水の豊富な土地を目指しての渡海であれば、そこに馬をつれていくことは、苦労や危険があっても、着いてからの期待のほうが大きかったはずだ。もちろん当時でも、日本のヤマト王権を目指して、政治亡命してきた人はいただろうし、鋳金などの腕をもつ技術者もいた。それでも、馬をあつかう商売人がいたとは想像できない。多くは日本での耕作を希望する農民で、彼らは家族と馬をつれて、自ら海を渡って来たのである。
こうして朝鮮半島の人々だけでなく、朝鮮の馬が、わが日本の居住者となった。このことは、日本の古墳時代に起きた、歴史的に特筆すべき事象だったと私は思っている。もちろん、それが日本人にも喜ばしいことだったのは、言うまでもない。
ともに生きるということ
中世以前の日本の東国には、牧(まき)という草地が各処にあった。牧の役目は、武者が乗る軍馬の生産を第一とする。牛もいたが、主たる産物ではなかった。
興味深いことに、日本からみて朝鮮半島の背後にある中国は世界最大級の驢馬(ロバ)の産地であるが、なぜかロバは日本に入って来なかった。ロバが日本にもたらされた記録上の数字はあるそうだが、当時の日本人は、ロバなど全く有難がらなかったのである。
私事で、まことに恐縮ではあるが、牧というのが私の姓になっている。知りうる限りの祖先の記録によると、我が家のルーツは、信濃の山中で軍馬の生産に関係していたらしい。草の露ほどの証拠もないが、源氏を自称していた。おそらくは、戦に敗れた落ち武者の誰かが山間部に逃げ込み、土着の郷士となって半農半牧の生活をしていたのだろう。そんなことから思いついて書き始めたのが本稿だが、読者諸氏にはもう少々、馬ばなしにご同道いただきたい。
日本史における馬という動物は、泥にまみれて農耕に使われるのが本来の役目ではなく、鎧兜の武者を背に乗せ、美的にも完成された姿として、意気揚々と戦いに出ることこそ第一義とされていた。ロバの武者では、まるで様にならない。それに関連する理由により、日本史に貴族が乗る牛車(ぎっしゃ)は存在したが、馬車はついに現れなかった。
中世以前の関東地方は、原野がどこまでも広がっていた。よい草と水があるところには牧が設けられ、鎌倉時代の関東は良馬の大産地になっていた。かつて勇名を馳せた坂東武者は、強い馬を大量に供給できる土地であったからこそ生まれたのである。
ただし、関東の馬よりもっと良い、最上級の名馬となると、奥州産の馬ということになる。寒冷地であるほうが馬体も大きく、力も強くなるわけだ。反対に、九州や四国など西国の馬は非常に小さくて、大男が乗れば足が地面についてしまうほどだった。そうした馬は、今日でも南西の島嶼部の在来馬、たとえば宮古馬や与那国馬などから想像できる。
朝鮮半島から渡来した馬は、背も低く、脚も短かった。ただし、粗食に耐え、力は強い。また、蹄が硬く、蹄鉄を打たなくてよかったうえ、性格も従順で日本人によく合った馬だった。今日の在来馬では木曽馬(きそうま)が、それに近い形をしているそうだが、馬の背に乗る日本人も当時は小さかったので、ちょうど良かったのだろう。日本の時代劇のドラマなどで、画面をサラブレッドのような西洋馬が走っているのは、時代考証としては、まことに不自然なものがある。
馬の話ばかりしてしまったが、大昔に、それを日本まで運んできた人々がいたことを語りたかった。それらの人々と、馬と、日本人とが、まさに力を寄せ合って、わが日本の歴史を積み上げてきたといってよいだろう。
他意はない。ぎくしゃくではなく、大らかな古代的風景をぼんやり想像することも、たまには良かろうと思ったまでである。
(牧)( 轉載大紀元 )