【文化と歴史】唐文明、日本への浸透

【脱党支援センター麻倉静香訳2019年12月1日】

唐時代、太宗皇帝の貞観の時代、文治と武力による治世は勢いに満ち、繁栄した文明は天下に潤いを与えた。唐王朝の文化、礼儀、律典、文物制度はすべて四方の異民族との戦いの中から得たものであり、太平の世を築くことになった。唐王朝の首都である長安はまた世界中からの使節、留学生、僧侶が集う国際都市になった。 

日本奈良時代の都城——平城京の朱雀門

唐を模範に大化の改新

若い孝徳天皇は「遣唐使」という提案を受け入れ、西暦645年(唐の太宗貞観20年)に「大化の改新」を推進し、唐という年号に倣い「大化」と名付けた。「大化の改新」は、唐王朝の繁栄をモデルに、唐王朝の律令を手本に、日本の習慣に基づいて、日本の政治経済を改革し、日本の国家体制を整備するものであった。

653年から16年間日本は唐に遣唐使を送り出し(そのうち一回は失敗)唐の文化の繁栄を学んだ。その後宇多天皇に至るまでの250年間遣唐使の派遣は19回に及ぶ。奈良時代の隆盛な時代はその規模が最も大きくなった時代で毎回約500人もの遣唐使を送り出した。日本は多数の留学生、僧侶、建設技術者、機織り職人などが中国に行き、経典を研究し、文化遺産や史跡を訪れ、本を集めた。 

吉備真備

唐の文化を浴びる

繁栄した唐王朝の強い文化的風味は、留学生や僧侶などにより日本に持ち帰られた後、当時の中国の漢詩を研究する競争の波を引き起こした。「詩経」、「昭明文選」、「玉台新詠」などの中国の漢文典が日本に伝わった後、それらは日本の和文や和歌の創作に直接影響を与えた。751年に編集された日本の最も古い漢詩集「懐風藻」には64人の詩人の作品が収められています。これらの詩は南北朝時代と唐王朝の詩を模倣しており、その内容の多くは月、梅、菊、雪、酒、および仏教の修練の心得が詠まれている。 

日本で最も早く最も完備された法典「大宝律令」は、大唐の律法を模倣して書かれた。日本人留学生の吉備真備は、二度遣唐使として派遣され、長安の鴻臚寺で唐の天文暦法、兵法、建築、律法等の知識を真剣に学んだ。735年、吉備真備は日本に戻り、天皇に「唐礼」、「楽書要録」、「東観漢記」を献上し、天文暦書等、200冊近くの本を献上した。この他に日時計、中国の楽器等の器物も献上した。その中で、「楽書要録」は中国では既に失われたが、幸いにも日本では完全なる形で保存されている。

吉備真備は中国の漢字から日本の片仮名を作り出した。また僧侶空海は長安の青龍寺で仏教と漢学を習得し、漢字の草書体から平仮名を開発した。

仮名の発明により、中国の歴史、天文学、医薬、技術、芸術等の何百もの書籍が、漢字と日本語の組み合わせにより日本人に急速に広まった。「大化の革新、つまり唐化運動は、日本を荒野から開放し、文明への扉を開くことになった。」

空海は、深い漢学の修養を以って、漢詩に関する日本初の理論「文鏡秘府論」を表わした。彼は漢・魏から隋・唐の時代の文学作品の研究を通し、詩歌の典籍語彙を研究し、鏡のように自身の文体を見つめ直し、これはいいのか悪いのか理論的に説明し、それは将来の参考に供することになった。

同時に、彼はまた中国の書道芸術を日本に伝え、平安時代の書道の三大師の一人と呼ばれることとなった。

日本人吉備真備入唐の風景
遣唐使の航路

長安に従って首都を建設する

日本は「大化の改新」の後、徐々に律法制度を構築した。

唐の影響を受けて、日本のさまざまな基本的な機能に戸籍、課税徴収等の制度が加わり拡充してきた。

そして唐の首都である長安を真似て、長安の街道の配置に従って、最初の正式な都、藤原京が建設された。

その後、奈良時代には都、平城京を建設した。

平安時代後の都は、明治維新中において東京に遷都するまでは平安京(現在の京都)であった。

これらの都は長安のレイアウトに従っており、建物は南北軸に沿って配置され、宮殿は北の中央に位置し、南は東西の都市と行政がある。

西暦405年、朝鮮半島の百済の学者である王仁は、天皇に「論語」と「千字文」を提供した。これは、中国の文字が日本に正式に紹介されたことのしるしとして広く認識されている。

漢字は日本の王室と貴族に導入された後、天皇の詔書、国歴史、律令等は漢字で書かれた。そして漢字は人気を博し、中国の文化が日本のさまざまな方面においてその原型が出現することを促進した。

「日本」と名付け文化が発展

日本の国名はもともと倭奴国であった。

唐の太宗皇帝はその名前が美しくなかったので嫌い、東の海にあり、そこは日の出る場所であるので、国の名前を「日本」とした。(宋の歴史書・日本の伝記:「唐の太宗皇帝は東の海にあり、日は東の海から出てくるので、日本という名前を付けた。これは日本の起源である。」そして大化の改新以後、天皇もまた太宗皇帝から与えられた国名を正式に採用し、「日本」に改めた。

歴史を振り返ると、日本の遣隋使、遣唐使の派遣は、当時の日本のエリート高官、学者、僧侶、技術者を代表しており、彼らの往復は日本における中国文明の広がりを引き起こした。

主流の日本人は、中国の王朝を賞賛し、唐の文化を模倣し、中国風のスタイル、執筆スタイルに浸り、その時の中世の核となる最も本質的な概念、すなわち神を崇拝し、仏を崇める。そして天地には秩序が有り、人には倫理があるという概念を日本に移植することになった。

神を崇拝し、仏を崇めるという概念に於いて、導き出された思想は、日本の建築、文学、暦法、絵画、習慣などのすべての側面にも影響を与え、それにより、当時およびその後の世代の日本の全体的な文化的風貌として確立した。

中国の文化に基づいて発展してきた日本の文化は、長い間の経験を経て今に至り、そしてそれは5000年の輝かしい中華文明の新しい姿である。

吉備真備 日本畫家 月岡芳年 所作

「中華文化無遠弗届」シリーズ


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