【党文化の解体】第4章(12)

【大紀元日本4月29日】

3 天地をも恐れず、嘘を偽り汚い言葉、下品な挙動

2)党文化は人をごろつきにさせ、下品な言葉を言わせる

 嘘偽りを言うほかに、下品な言葉を言うことも党文化の一つの特徴である。伝統的価値観の下では、善し悪しを判断する基準となるものは道徳である。これに対して、中共の歴史唯物論主義の下では、「革命」と「階級」と言う基準の下で善し悪しを判断、中華の伝統的礼儀を足下へ踏み潰した。

 パリ・コミューンは歴史上で初めての無産階級による専制的政権を立てた。共産党の鼻祖であると言えよう。自称流氓無産階級(プロレタリアート)であるパリ・コミューンの連中は、歴史的記録によれば、所謂本場のごろつきである。当時、教育も受けていない、窃盗で節度なく生活していた無頼の徒は共産主義の名目でパリ城を洗いざらい奪い尽くした。パリ・コミューンの流氓無産階級者の啓発を受け、ソ連共産党の扶助もあって、中国共産党もこれら無産階級者を依拠し活動を興した。中共によれば、「ごろつきは社会に見捨てられた存在であるが、実際に農村革命においては、最も勇敢で、最も徹底的で、最も信念の固いものでもある」としている。毛沢東は「中国社会各階級についての分析」の中で、ごろつきの革命の中でその役割について言を憚らなかった。ごろつき運動は「とてもよい」というのだ。さらに毛は1964年8月18日に発表した「哲学問題についての話」の中で次のように言う。「何が北京大学、人民大学だ。やはり其の大学がよい。私は正しく其の大学―緑林大学(※)の出身だ。そこからものを学んだ」

 中国の古代でもならず者が天下を取得した事例があった。劉邦が若い時は沛県(今日江蘇省沛県)で亭長(亭は秦朝のとき行政区画単位で、5キロの範囲を一つの亭と言い、亭長はその首長である)となっていた。当時の彼は女好き酒飲みで有名であった。しかし、劉邦は天下を取った後でも、馬背上で(武力で)天下を取れても、そのまま天下を治めることができないという道理を知っていた。劉邦は儒者である叔孫通氏と彼の弟子たちに、朝廷の礼儀の制定を命じ、道家思想をもって、道徳仁義、冷静無為をもって百姓たちの修養と生活を治めた。古代のならず者でさえ政権を維持させるためにはならず者的手段ではなく、正統の文化でなければならないという道理を知っていた。

 しかし、これに対して、中共は政権を収奪した後、引き続きならず者的な手段をもって国家を治めてきた。党文化の体系の中で、所謂ならず者的な横暴的、理不尽的な態度は随所見られる。教養があって礼儀が正しいのは所謂「封建的・資本主義的・修正主義的」である。知識人は「臭老九(文革中知識人に対する侮蔑的称呼)」と呼ばれ、粗末で下品な行為は最も「革命的精神」を持っていると看做され、両手にタコができた労働者の心は最も赤い。農民の足に付いた牛の糞は最もいい匂いがする。「彼らの手は黒く、足に牛の糞が付いているが、しかし彼らは小ブルジョアジーや知識人分子よりもきれいである。」あなたが牛の糞の匂いは臭いと思ったら、あなたの階級的感情には問題あると言う。すべてといっていいぐらいの知識人は皆牛の糞はいい匂いがする、匂えば臭うほどよい匂いがすると言わざるを得ない。中共は数十年にかけてごろつきの粗末で下品なものの宣伝と鼓吹により、日常生活の些細のことから人々の生活習慣を変えていた。人をごろつきにさせ、下品な言葉を言わせるようになった。インターネット上のブログでは下品な言葉や口悪くののしる貼付は溢れていることが、中国語のネット上の一大特徴となってしまった。本来ならば、心平穏に議論することができるのに、一部の人による下品な言葉の罵りと言葉による人身攻撃と化してしまう。党文化の洗脳により形成した恨みや狭義的な「愛国主義」の偏見の下では、民主、人権、台湾海峡、法輪功、宗教信仰、外交関係などなどの話題は、皆口汚く罵る対象となってしまうのである。

 中共の最高指導者のならず者言語、例えば、「パンツ脱げ」「尻尾切れ」「ばか言え」などの言葉を教科書に書き込むことから、文化大革命中の全民運動がならず者行為やならず者言葉に対する鼓吹、さらに80年代以後テレビドラマ「上海灘(上海グランド)」を引き込み、マフィア企業家をテレビの番組として模範化され、ならず者は堂々と大衆が崇拝と模倣する英雄となってしまうほどだ。

 目下の社会の中で、信仰の欠如、理想の壊滅、権力、金銭は人々が唯一追求する目標と目を向くところとなってしまった。人々は進化論学説の影響を受け、他人を虐める強者となるために争い、成功するには「横暴的」な態度が必要であると思い込み、一般の人は勝手に他人に手を出す権利を持っていないが、罵りは弱者が危惧するようになり、自己に勇気付ける唯一の方法となった。「私はならず者だ、恐れる人はいるか」というのは、正しく下品な言葉の背後に現れる「天地をも恐れず」の心理状態の如実の描写ほかならない。

 ※緑林大学…西漢の末年、王匡、王鳳らが、荊州の貧しい百姓を組織して蜂起、緑林山(現在の湖北省、當陽県東北)を根拠地としたことから、「緑林」は山林に集まって官に反抗したり、財貨を強奪したりする人々を指すようになった。ここでは、実際に革命や階級闘争に参加することによって、多くのものを学んできたということから、それを「緑林大学」出身だと喩えたのである。

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