【党文化の解体】第4章(7)

【大紀元日本3月25日】

1.悪党の思想と思考回路、悪党組織特有の言語
 4)中共に期待するという矛盾
 (5)共産党の対立する二面性

 共産党は悪事を絶えずやってきたのを自身知っている。そのため、共産党の対立する二面性を両方見ていただきたい。

 一般大衆もこれに調子を合わせ、「まさか共産党がちっともよいことをしなかったのか」と言い、この観点には道理があるようにも聞こえるものの、しかしこれは「両面を見る」場合と目的が何かということだ。

 殺人犯の一人が、死刑に処せられるのは、法律に照らして見れば、それは既にその罪の性格が決定されている。もし法廷で矛盾する二面性を提出することが要求されれば、小さいときにお爺さんを助けて手押し車を押してあげたとか、木を植えたとかの類で殺人罪が消えるのであれば、それは受け入れられない話である。

 国家と政党についての類する話では、第2次世界大戦前のドイツの例を見てみたい。1933年ヒトラーはドイツの元首となり、その経済政策はドイツの経済を毎年のように100%成長させ、ドイツの失業率は30%からゼロとなり、ドイツの当時の国際地位が急速に高められた。

 特にドイツは第1次世界大戦の戦敗国で、イギリスやフランスから差別視され、賠償金も要求された。しかし、ヒトラーが元首となって以後、ドイツは欧州の強国となり、さらに1936年にベルリン・オリンピッが成功すると、国家の多くがこれを刮目してみるようになった。当時のドイツのすべての高速道路は戦闘機の離着陸ができるように作られていた。多くの地下鉄の建造もヒトラーの時代で完成した。このほか、ヒトラーは当時のドイツの家庭が皆家族の車をもつように訴えた。これがドイツ車製品のブランド「フォルクスワーゲン」の由来である。

 しかし、ヒトラーは経済上においていくら多大の努力をし、軍事上においてもいくら多大な成功を収め、一部では軍事家や経済学者だと言われていたが、それらは皆重要なことではない。なぜならば、彼は第2次世界大戦を発動し、全世界規模で死傷者9000万人を出し、4000億ドルの経済的損失をもたらし、同時に、彼は強制労働収容所でユダヤ人に対する残酷な迫害を繰り返し、ユダヤ人600万人が第2次世界大戦中に収容所で命を落としたからだ。

 これらの事実はヒトラーやナチスの問題の性質を定めるのに十分である。したがって、今日のドイツでは、ヒトラーやナチスに対して「両面を見る」と言う人もいないし、ナチスの標識やヒトラー崇拝は違法なものである。

 日本をもう一つの例としてみてみよう。中国へ侵略した日本軍は人殺し以外にも、多くの実業を立ち上げた。特にいわゆる東北三省では、工場、鉱山など、中共が政権を収奪した後に至っても、当時の東北三省の旧工業基地の多くは、日本人がその基礎を残したものである。当時の東北三省は、鉄道網が最も発達した地区であったが、それも日本人が残したものである。

 南京虐殺事件後も、日本軍は中国各地で多くの文化活動を行ってきた。たとえば、お盆祭りなど、南京の秦・淮河両岸では繁華街が繁栄し、富貴文雅の雰囲気があって、上海でも毎朝のように宴会をし、毎晩のように楽器を演奏し歌っていた。

 上の例と同様に中国は侵略してきた日本軍の中国の経済発展にもたらした功績を感謝しなければならないのだろうか。侵略した日本軍に対しても「両面を見る」と言うのだろうか。中国人一般で、こう思う人はいないだろう。

 侵略してきた日本軍は南京虐殺、731部隊、三光政策(※1)、今回の侵略戦争では中国の軍人・民間人を合わせて死傷者2000万人を出したが、これらの事実はこの侵略戦争の性格を定めるのに十分である。

 振り返って共産党については、政権を奪取後、中共によってもたらした死者は8000万人に上り、そのうち4000万人が虐殺され、残りの4000万人は餓死した。この虐殺の数は、ナチス・ファシズムの十数倍に及び、日本侵略軍の四倍に及ぶ。

 このほか、共産党は100万平方キロメートル超の土地を割譲して売却し、この二つのことだけでも、中国共産党についてその性質となるものを十分定めることができる。

 今一つの角度から見て、共産党自身が物事をなすときは、両面を見て折衷を図るのではなく、やり尽すのである。たとえば、革命に反対する分子を鎮圧するとき、なぜ元来の国民党の官兵に対して両面を見ないのだろうか。劉少奇を迫害し、林彪や_deng_小平を打倒するとき、なぜ彼らに対して両面を見ないのだろうか。今日、法輪功に対する弾圧も法輪功のよいところは一つも聞こえず、法輪功を中傷して誹謗する話ばかりである。

 したがって、中共が表面上で強調している「両面を見る」と言うのは、実のところ、その政権を維持するための口実に過ぎず、民衆からある程度認めてもらうための策略である。もし本当に「両面を見る」と言うのであれば、中共は自身の過去と向き合って、誤りと向き合うべきである。

 中共が言う「両面を見る」というのは人の目を誤魔化す方法である。本心を隠すために、物事はいつもよい面と悪い面をもっていると見せかけの行動をして、人々に客観視している様子を見せかけ、その後、「悪い面」を言わなくなり、「良い面」の部分に着地点を見つける。

 したがって、中共は人々が中共の過去を根堀り葉堀りして見つめ直すことを許さず、中共がした悪事は人に言わせず、たとえ言わせても中共が決めた調子と尺度で言わせ、このように言わせた結果、逆に今日の中共をよく見せるものである。

 ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の首相であるヴィリー・ブラント(Willy Brandt)は、ワルシャワ・ゲットーの記念碑の前に跪いて献花し、ナチス・ドイツ時代のユダヤ人虐殺について謝罪の意を表したが、これに対して中共の指導層らは、自国民に対して謝罪の意を表すことは一度もない。

 もしドイツで「万が一でも絶対忘れるな」という格言があるとするならば、中国では「万が一でも絶対覚えるな」とあるであろう。しかし、歴史を忘れる社会に自力救済ができるのであろうか。

(6)「衣食に事欠かない権利は人権より大事」

 世界的な民主主義の潮流の前で、中共の人権に対する悪行は世界において自身の重荷となる。すると、御用文人たちはでたらめの人権観をでっち上げた。

 「衣食に事欠かない権利は人権より大事だ」、「空腹で腹が鳴っている農民たちの中に行ってみて聞いてみたらいい、彼らは飯を求めているのか、それとも民主と自由を求めているのか?」、多くの人が国際社会の中共に対する人権記録批判を目にする時、こうした中共と同様の表現で反駁する。

 中共の手による政治教科書と毎年出題される政治科目の試験では、当該問題に対する模範回答が用意されている。

 中共は様々な外交の場面においても、いつも話の筋が通っていて意気盛んであるかのように、容赦なく厳しく話す様子を見せる。一般の人々が無意識にこのスローガンを復唱しているのは、中共による宣伝と洗脳と無関係ではない。実のところ、これは思考の論理を混乱させる一種の詭弁である。

 民主と自由を一つの抽象的概念として捉えると同時に、この抽象的概念を具体的な「衣食物」と対比させ、それに農民の教育水準が低いことを付け加え、農民は具体的な「もの」しか要求せず、抽象的な「もの」は聞いても分らないというものだ。したがって、農民は皆「飯を欲しがる」という結果になり、民主と自由の重要性を否定し、結論は「衣食に事欠かない権利は人権より大事だ」となる。

 ここで、少し言い方を変えて、民主と自由を具体化すれば、農民は中共による文字の遊戯に騙されなくなるだろう。過重な負担のせいで、農民の生活は変わらない。中共でさえ、農民の負担を軽減させることは重大な国家的事業の一つであるというぐらいだ。

 腹が減っている農民たちに、もし「民主人権」という抽象的な表現の代わりに具体的な行動に変え、たとえば、「我々農民はひどい目に遭わされてから、この実態を暴露しよう。みんなどう思う?」「官僚は農民を威圧し、分けのわからない煩雑な税目も多く、それらを罷免し、本当に我々農民のために働く人を選出しようじゃないか」、このような提案を農民が拒否する理由はあるのだろうか。

 人が空腹の時、助けを求めようと思えば、まず声を挙げ空腹の事実を知ってもらわないといけない。すなわち「言論の権利」は、「衣食に事欠かない権利」よりも大事なのである。

 しかし、なぜ中共が本末転倒の詭弁を弄しても、人々が抵抗なくその詭弁を受け入れ、言いなりになっているのであろうか。仮に衣食に不満を抱えている人に発言の権利がなくても、衣食に不満をもたない人は大勢いるのではあるまいか。なぜ彼らに発言させないのだろうか、彼らに衣食に不満を抱えている人のために発言をさせているのだろうか。

 実は、「衣食に事欠かない権利」は中共にとってもそれほど重要なことではあるまい。中共が意図しているのは、ただ外部の世界を表面的に誤魔化し、言論の自由を拒絶することだけである。

 上述のような是に似て非なることはほかにもまだたくさんある。党文化が人々の思想を改造してから、確かにお互いの交流は難しくなった。一つの問題が解決したら、またほかの問題が出てくるのである。

 如何に党の思考方法で物事を考えることを回避するか、そして如何に党が教えた話し方で表現することを回避するかの重要なポイントの一つは、役目を分けることだ。自分と党を分けて、「母なる党」という情緒を克服し、「党から離れない」という境界線を突破し、党の無神論、唯物論と闘争の哲学、怨恨の哲学を自分の思惟の基礎としないことだ。

 このような是に似て非なる観点は、もし自分がこれらの観点に追随しようとするとき、これらの観点は一体誰にとって有利であるかを考え、党が悪事を行うことに鼓舞するのか、それとも党の活動を監督し、党による悪事の発生を抑制するのかを考える。

 中共は自分のための弁解をしているが、中国国民一般はそれに呼応してはいけない。中共が批判を受けることと一般の中国人が批判を受けることと別のことである。中共の面子が敗れても、中国人の面子が敗れたことではない。独裁に挑戦し、真相のために立ち上がる人は、真の勇士であり、世間の人から尊敬されるはずである。このような尊敬の気持ちは真に中国人に対する尊敬である。

 (※1)三光政策…旧日本軍の対中国政策の一部。中国語で「焼光(焼き尽くす)」「殺光(殺し尽くす)」「搶光(奪い尽くす)」をとって「三光政策」と呼ばれた。

 (続く)

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