【党文化の解体】第4章(4)

「安定が何よりだ」(大紀元)

【大紀元日本2月16日】

1.悪党の思想と思考回路、悪党組織特有の言語
 4)中共に期待するという矛盾
 (1)経済の表面上の繁栄がもたらす視覚的衝撃:「経済水準を引き上げてからの話だ」

 視覚と感覚が中国人民に与える衝撃は巨大なものである。共産党におしなべて脅迫され、貧乏の極みに馴らされた中国人は、生活上において少しの改善があるだけで、すぐに満足しがちになる。

 それに加え中共が毎年のように繰り返す「良い生活」「盛世聯歡(国力を盛んにして楽しむ)」の宣伝、それはまるで「イギリスに追いつき、アメリカを超える」という出鱈目な時代の再現で、中国人民の気持ちは有頂天にさせられ、中共はこの機会に乗じて経済的発展をもってその執政の合法性の根拠を探ろうとしている。

 本当のところは、経済の発展は中共と全く関係のないことである。功労は勤勉な中国人民に属するものである。一部の人は次のように話す。

 外資の直接投資さえあれば、知恵のある科学者と技術者さえいれば、困難に耐え苦労をいとわない労働者と農民さえいれば、たとえアフリカの小さな国であっても二十数年をかければ繁栄した豊かな社会を作り上げることができる。

 しかし、この種の効率的でない発展は民族の長期的利益に合致するものであろうか。発展の順序の問題、何を先に、何を後に、相互依存関係などなど、これらは現代的管理の中での最も基本的な問題の一つである。

 中国の表面的の繁栄の裏には、どのような光景があるのであろうか。

 政治改革の停滞、経済体制の畸形、社会の不公平、官僚による腐敗、貧富の差、道徳の墜落、環境の破壊、資源の不足、人権・信仰と宗教団体への残酷な迫害、民主自由に対する敵視、言論とメディア自由に対する徹底した封じ込め、銀行の不良債権、金融危機、マフィア、娼妓、人口の大多数を占める社会的弱体集団の無視などなど、それから、根強く絡み合った社会矛盾、怒涛の如く巻き起こっている民間の人権保護運動、日増しに増える集団的暴動事件(2005年には年間8万件に達した)等々、大自然に不測の異変があるように、天からの罰則や報いがあったのは言うまでもないことである。

 表面的な繁栄の下での中共政権は、火山口の上に座っているようである。

 いわゆる経済の高度成長は環境破壊とエネルギーの無駄遣いを代価としてもたらした。もし環境破壊へのリスクを考慮に入れたら、中国のこの時期の実質GDP成長率はマイナスとなる。目前の功利を求めるために、経済の畸形的な発展によりもたらされた潜在的危機と民族の災難の発生の可能性については、中国人民は考えもしたがらないし、正面から向き合おうともしない。

 理由は二つある。一つは中共の強権政治に屈服しているからである。思っても意味がないし、自ら煩わしいことをしないと思っている。

 もう一つは現在の生活は以前よりよくなったし、この種の発展が持続的可能か否かは別として、ひたすら黙って儲かることばかりを考えている。

 それら金儲けのことだけを考えている外国の商人や政客たちが考えているのは、如何に地球上の最後の巨大市場から美味い汁を吸おうかということばかりである。

 海外では経済発展が中国に民主と自由をもたらすと認識しているが、ここ20数年を見る限り、外資系企業は民主と自由を中国に持ち込めなかったどころか、中共の腐敗した食物連鎖における起爆剤になってしまった。

 ある学者は中国を三つの世界に分類している。別荘に住み込み桃源郷のような享楽した生活を送る第一世界。住宅、医療、子供の教育のために出費を惜しむ第二世界。衣食だけで精いっぱいの生活に苦しんでいる第三世界。

 中国社会科学院「中国現代化戦略研究課題チーム」が編集した、『中国現代化報告2005』という報告では、中国経済は米国のそれに比べ、100年の差があると明記している。年平均成長率が9%を保持できて、100年かけてやっと世界トップ10に入るほどである。9%の経済成長を100年間維持するというのは実現可能なのか。

 中国は次の世紀の主役になるにはまだほど遠い道であると評論する人がいる。しかし、中国の大都市部における窓口形式の繁栄のあり様の下では、中国の真の姿が隠されてしまった。

 経済の表面的繁栄は中国人民に視覚的衝撃を与え、「一俊は百醜を遮る(一個の優れた点は、百個の劣った点を覆い隠す)」というように、中共にベールを被せ人を惑わせてしまった。「廬山の全貌は捉えにくい」といわれるように、短期的利益と盲目的展望は、中国人民の現実に対する全面的認識を相当程度に抑制し、共産党の歴史に対する反省や理性的思考を不可能にしてしまった。

 皆も知っているように、詩を創作する造詣は詩そのものの中にあるわけではない。同様に、真に経済水準を引き上げるためには、まず解決しなければならないことは信仰、道徳、法律、言論の自由、メディア統制といったような非経済的要素である。

 これらの問題を解決しなければ、経済水準を引き上げることもできないのである。「経済水準を引き上げてからの話だ」という言い方は、ただ共産党の政治体制改革を延命させる言い訳にすぎないのである。しかし、目下中国人民はこのことについて意外に気が付いていなく、まるで真理のようなものであると思い込んでいる。

 実は、中国人民はすでに党文化による思惟に陥って、中共の考え方で物事を考えているからである。現在の中国人は昔に比べ、多くの自由をもっているが、しかしこれらの自由はみな生活、スポーツと娯楽の方面に集中しており、それ以外の分野では依然として禁止区域となっている。

 他の国はその発展の過程においては、民衆は積極的に政治と制度の改善に参加し、自己の権利を求めようとしてきた。しかし、現下の中国の民衆はこれと違って、自己の権利を求め、中共による迫害に反対する一部の人に対して、彼らの行為を理解しようとしないどころか、彼らの権力を求める行為自体に対して反対するほどである。

 多くの民衆は一切を共産党に任せがちである。共産党が自ら変わり恩恵を施してくれるものと思い込んでいるのだ。

 2003年に大陸で議論を呼んだテレビドラマ「走向共和」(「共和へ向かって走れ」)は、後に放映禁止となった。ドラマでは清朝の改革開放政策の失敗の必然的結果を如実に明らかにしていた。この点では、中共に対して大変刺激的なものとなった。

 清朝の改革開放前、電灯、電報、電話もなければ、列車や自動車もなかった。わずか数十年の間、上海の三つの大通りの両側に建てられたガーデンハウスや、黄浦江両岸に聳え立つ高層ビル、これらは後の中国の改革開放初期頃の窓口となった。

 しかし、これらの業績は清朝の亡びる運命を救ったのであろうか。いや救わなかった。1905年孫文が言ったように、単に鉄道、列車、電話、電報といったような西側の物質的文明を導入する措置だけで、政治的改革を行わなければ、国内の汚職腐敗、騙し取りや脅迫といった手づるを広めるのみである。

 実は今日の人々は、各方面の協調により発展をさせていくという基本的な常識がわからないでもないし、(各方面での協調作業が)遅れれば遅れるほど、それを修正するためのコストが高くなるということも十分承知しているはずである。

 肝心なのは中国人民は党文化の雰囲気の中で、中共の暴威に屈し、中共の利益に呼応し、経済を発展させて少なくとも眼前の利益ぐらいを確保することができ、むやみに「経済水準を引き上げてからの話だ」を叫んで、逆に中共の殺人放火のような悪事を無視してしまっていることである。

(2)「安定が何よりだ」

「安定が何よりだ」(大紀元)

政治運動を経験した中国人は、「安定」という言葉に対して特別な渇望をもっている。したがって、「安定が何よりだ」は庶民に中で大変共感を受け、中共の新時代における統制維持の主要スローガンとなった。

 共産党といえば、中国人民がすぐに連想するものは暴力革命と政治運動であろう。なぜ今日の中共は「安定」という旗を振るのだろうか。一見矛盾するようにも見えるが、実はとても簡単だ。

 すなわち中共は民衆を「動乱」させることができるが、一旦民衆が中共を「動乱」させようとすると、逆に中共は「安定」を声高く強調するのである。

 数十年に渡る何ら憚ることのない運動は、人民を「動乱」の中で生活苦にして、80年代後期から勃興した民主自由の波が民衆を覚醒し、すぐにでも中共が「動乱」で倒れそうになったかのように見えたが、この時に中共は声高く「安定」を強調し始めた。

 中共が言う「安定」は、その政権の安定を意味することは明らかであり、国家や民生の安定ではないのである。中共の非効率的な改革の中で、それらの既得権益者たち、特になんらの制約も受けない権勢者たちがもっとも「安定」を必要としている。

 すなわち「安定」的に利益を獲得しようとする。彼らは既定の秩序をやっきになって維持しようとするため、「安定」を保持する断固たる勢力となり、最も「安定」に頼る勢力となる。

 この種の「安定」は良知や道義を超越し、庶民の死活など眼中にないものである。労働者が立て坑の下で生埋めにされても、中共は「安定」を理由に、いわれのない不当に扱われた死者を隠そうとしている。

 強制立ち退きされ、追いつめられ、やむを得ず死を覚悟して上申の道を歩まざるを得ない住民たちは、公平が戻ってくることを幻想しているが、中共は又もや「安定」を理由に、直訴者を上申の途中で断ち切って、さらにその上、場合によっては、「安定破壊」を名目にこれら不公平に晒された住民たちに対して迫害することさえ行っている。この種の安定は偽物であり、社会の不公平や矛盾が一定のところまで蓄積されたとき、火山のように爆発してしまう。

 共産党が宣伝する「(党の)安定が何よりだ」はまさしく社会的矛盾が蓄積され全体的な爆発を醸す過程なのである。一旦危機が爆発したら、中国人が今日もっている財富がすべて水泡に帰し、中華民族は又もや塗炭の苦しみに陥いる。

 皆が知っているように、経済の循環は周期をもっている。絶対的な「安定」は存在せず、変動は不可避なものである。このような状況であるからこそ、合理的制度を基礎とし、社会の安定を保障すべきである。

 真の安定は、自由の秩序、法制の秩序、公正の秩序を必要とする。イギリスは最も早く憲政を実現した民主国家であり、三百年余り高度の安定を維持し、民衆は自由で経済は繁栄している。

 社会に矛盾が生じた場合、必要なのは適時に誘導することであり、強制的な抑圧行為でない。中共は、民衆が各種の運動でトラウマになった恐怖心と安定を望む心理とを利用し、物事の本質をひそかにすり替え、自己の強権政治による安定を無理やりに民衆に押し付け、この種の安定はまさしく不安定そのものである。

 中共の「安定が何よりだ」がもたらした代価は、現状からの体制転換がさらに困難になり、コストがさらに高くなり、リスクもさらに大きくなっていることである。社会的矛盾がますます激しくなっている今日、中共が知っていることは、人権活動家や民主運動家に対する弾圧、宗教信仰団体への弾圧、情報の封鎖制限だけなのである。

 中共が集団的・個人的な既得権益を維持する過程において、その原罪はますます大きくなり、中共がいつの日か一念発起して慈悲心を発し自ら政治改革を行い、自由と民主を実行するとは考えにくくなっている。はっきりいえば、中共自身が最大の不安定的要素なのである。

「一切の不安定的要素を消滅せよ!」(大紀元)

(続く)

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