【党文化の解体】第3章(28)

【大紀元日本12月19日】

5.多種の文芸形式を利用し、党文化を注入する
 2)演劇、歌舞、大衆演芸など多種な文芸形式を利用し、党文化を注入する
 (3)審美習慣に見られる時間のずれ

 人々の審美習慣には時間のずれが見られる。すなわち、ある種の審美習慣を形成し改変するには、往々にしてある種の理性的な思惟を形成し改変するよりも更に困難である。

 このため中共が文芸形式を利用して党文化を注入する効果は比較的に緩慢で、殺人や、政治運動のようにすぐに恐ろしい雰囲気を醸成するというものでもなければ、世論を煽動して宣伝することのように思想的な目的にすぐさま到達するというものでもないが、文芸による宣伝は人々の感情に訴え、独特な審美習慣を培養し、人の心に深く入り込み、その危害は隠蔽されて長続きするものである。

 2004年の「7・1」(共産党の建党記念日)の前、中共は全国各地で一系列の所謂「赤色経典」の上映を打ち出し、その中には歌舞劇「洪湖赤衛隊」、バレエ劇「紅色娘子軍」、歌舞劇「江姉」及びその他の歌舞などがあった。

 話によれば、大衆に歓迎され、興業成績はとても良かっとのことである。

 ある観衆はインタビューを受けた際にこう応えた。「この作品はかつて我々の人生のもっとも重要な時期と共に歩んできた。我々は”洪湖の水よ、浪は逆巻く”(歌舞劇「洪湖赤衛隊」の主題曲)を歌いながら歩んできた世代だ。7.1のような特殊の日に改めてこのような経典歌舞劇を見ると、まるであの時代へ戻ったような気分になれるものだ」。

 この観客は嘘を言っていないかもしれない。しかし、芸術と審美は真空の中に存在しているわけではないのである。

 共産中国のような高度に政治化された社会の中では、大量の歌曲が強烈な党文化の色彩を帯びている。そうでなければ、なぜ「党」がそれほど熱心に各種の祝日や、記念日に「歌謡コンクール」や「文芸上演会・匯演(※1)」をやるのか理解に苦しむのである。

 一昔前の人々は口をあければ、必ず「共産党がなければ、新しい中国はない」「解放区の天は明瞭な天だ(解放区の領袖、即ち毛沢東を暗に讃えるスローガン)」「のろしは滾々と英雄を謳える」「大河の一筋は波高く寛し」と言った。

 現在の人は、「ある老人が南海の辺りで輪を囲んだ(_deng_小平の改革・開放政策を喩えている)」、「前人の事業を受け継ぎ、我々を新しい時代へ導く」「東方紅(※2)」「祖国を謳える歌」「長征の組歌」「民謡を歌って、党に聞かせよう」「党よ、愛しい母よ」「大海の航行を船頭に任せる」「毛沢東は我ら農荘(地主が小作農を支配管理する荘園)へ来たれ」「太陽は最も赤く、毛主席は最も親しい」「毛沢東の話を心に刻み」……。

 これらの歌はほとんどが民謡風で、曲調は美しく歌いやすく、人がいくら歌っても飽きないものである。

 党の領袖に対する忠誠、「党」に対する熱愛は、自慰的な快楽に浸っている内に、知らず知らずのうちにその潜在的意識の中へ押し込まれる。

 党文化を注入する効果について言えば、これらの歌曲が起こす作用は、「毛沢東選集」四巻に劣らないほどである。

 海外経験のある人が、自国で培った「お国の味」を変えるのがどれだけ困難だったかを考えてみると、共産党により植え付けられた邪悪な審美心理を一掃するのにどれだけ苦労するかがすぐわかるだろう。

(4)心情の移り変わりを利用する

 心情の移り変わりとは、簡単に言えば、「屋烏の愛(愛する人の飼っている鳥もまた可愛い)」である。甲を愛していると、甲と関連する乙・丙・丁などもすべてが愛しくなるということである。

 商業的な広告では、常道として芸能界のスターを使って商品ブランドを推薦させ宣伝している。するとこのスターに好意をもっているファンたちは、こうした商品を抵抗なく受け入れる。これが心情の移り変わりの作用である。

 「洪湖の水よ、浪に浪を立て、洪湖の水辺は我が故郷だ。早朝に船を出しては網を仕掛け、晩に戻れば魚は船倉に満杯だ。四季に鴨と蓮根、秋の収穫では魚は大量だし穀物も格別だ。皆は天国が美しいと言うが、我が洪湖の魚米の郷とは比べものにならないさ。洪湖の水は、滔々と流れ、太陽が一旦出れば金光が閃く。共産党の恩情は黄海より深く、漁民の光景は年々一層よくなる」。

 中国大陸の「山河の秀麗」「物産の豊穣」は、共産党とは元より全く関係がないが、もしあるとすれば破壊的な関係であろう。しかしこのように歌うと、まったく関係のない二つのものが無理矢理に関係付けられてしまう。人々は祖国の自然風貌を愛するがゆえに、まるで共産党に対しても好感と恩情を胸一杯に抱いているかのようになっている。

 このような例は枚挙に暇がない。

(5)漫才・演芸・コントのもつ独特の作用

 中共の政治運動とは、事実を列挙して道理を説いてから始めるのではなく(なぜならば、もし事実を列挙し道理を説くと、もはや政治運動を発動する必要がなくなるから)、往々にしてまず個人攻撃を始め、粗野で低俗な想像力を働かして人の陰気な心理に迎合し妖怪化したストーリーを捏造して、怨恨を挑発する目的を達成するのである。

 例えば文革の時、人々の多くは、なぜ劉少奇が「裏切り者」「間諜の工作員」「労働者を売る敵」だと言われているのかが分らなかった。

 そこで中共はデマを撒き散らし、劉氏の夫人であった王光美は自らの肌のため牛乳を用いて入浴していると言いふらした。

 あの物資の乏しい時代、牛乳を飲むことでさえ尋常ではないのに、劉の女房は牛乳で入浴するなんてと思うと、人々はなぜ劉少奇が「裏切り者」「間諜の工作員」「労働者を売る敵」なのかを知る必要もなくなり、おのずから彼に対する痛烈な恨みや蔑みを覚えるようになった。

 同様な理由で、演劇、漫才、コントなどの文芸形式が伝統的な人物や伝統的な文化を低く評価して貶そうとするとき、中共の敵を攻撃する面において、独特な役割を果たしている。

 50年代の漫才の多くは、封建的な迷信を打ち破ることをテーマにし、伝統的文化の多くの観念や風俗を風刺して軽薄な笑いの対象とした。

 たとえば、婚姻の習俗、陰陽の概念、宗教的な信仰などである。多くの人が覚えている、極めて流行した漫才の中にこうしたものがある。ある老婦人が仏像を一体買い求めた(※3)。

 隣家の若者が、「何元で買ったの?」と聞いた。老婦人は、「買うと言ってはなりません。招くと言いなさい」と叱った。

 そこでその若者が、「何元で招いたの?」と聞き直したら、老婦人はもったいぶって、「やれやれ、こんな子供騙しが8毛(※4)もしたさ」。こうして善男善女たちは、低俗で吝嗇な愚鈍の男女として醜く描かれている。

 2001年に中国中央テレビが放映した「春節の交歓ナイトショー」という番組で「杖を売る」というコントが公開されたが、それは間接的に法輪功を誹謗中傷するものであった。

 放送後、各地の新聞メディアは先を争うようにして社説や記事を掲載し、その機会を利用して法輪功を攻撃した。

 例えば、「検査日報」は「春節交歓ナイトショーから見る、法輪功の狡猾な手口」と言う記事を掲載、「雲南日報」は当ナイトショーを論評し、その中で「杖を売る」に言及、「法輪功を酷評する意味においては、演技の程度はちょうどいい」と酷評した。大量に転載されたネット上の文章、「趙本山氏の【杖を売る】から、心理的な暗示を探る」も法輪功を誹謗中傷するという立場を採っていた。

 この手法の危害は、ある物事や観点は間違っていると直接言わず、この物事や観点を極限にまで虚妄化して漫画化し、人がこれらの物事の是非を理性的に考える機会を奪うところにある。

 泥を塗られた側の弁明は、観衆たちの満場の笑いに埋没して消されてしまうものである。

【注釈】
(※1)匯演…各地もしくは各単位で集中して公演される演芸プログラム。広く報告会、相互学習、体験交流会などの機能も併せ持つ。

(※2)東方紅…中国共産党とその領袖である毛沢東を称賛する大型の音楽歌舞劇、1964年に初めて公開された。

(※3)「請」…中国的な伝統文化では、仏像や仏壇などを購入するとき、中国語で「買」と言わず「請=招く」という言葉を使う。

(※4)毛…中国の経済的な貨幣単位、1元=10毛。

(続く)

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