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『共産主義の最終目的』序文
第二章 赤魔の陰謀:人類を壊滅させる(下)
序言:殺戮を繰り返す共産邪霊
共産党は常に殺戮(さつりく)を繰り返している。しかも、殺戮はほとんど平時に発生しており、そして自国内で行われている。1950年代の反革命分子を粛清するキャンペーンで10万人もの紅軍を殺し、1940年代延安での気風粛正運動、50年代土地改革での地主打倒運動、および1949年以降に一連の政治粛清ではあまたの命が奪われた。
戦争であれ、歴史上の暴君であれ、みな敵があるから人を殺していた。しかし、共産党は人を殺すために敵を探す。敵がなくとも敵を作って人を殺す。
共産党はなぜこれほど殺戮を好むのか?共産邪霊はその最終目的を果たすために、殺戮を通じてこの世で恐怖の場を作っている。共産党は殺戮を研究し尽くしており、その作用を最大限に発揮させている。
では共産党がどのように殺戮しているのか?暴力、経済利益、そして世論などの手段を駆使している。
暴力で殺すことは、毛沢東のスローガン「権力は銃身から生じる」を信奉する中国共産党の得意技である。
経済利益で殺すとはどういうことなのだろうか?つまり、経済利益で脅すことである。屈服しないと収入源を断ち切られる。数多くの知識分子がこれで不本意にも共産党に屈した。中国の士人は従来、利益に屈服せず気骨を重んじる。古代では政府の俸給がなくなったら、ほかの手段で生計を立てればいい。東晋・宋の詩人陶淵明は「僅かな俸給のために、田舎の汚職役人に服従するのは真っ平だ」と憤慨し、辞職して悠々自適な田園生活を送った。しかしながら、社会のあらゆる資源を中国共産党がコントロールしている現代中国では、屈服しなければ生きる道はない。
世論で人を殺すことも共産党の特色である。共産党があらゆるマスコミを牛耳っているため、標的にされた人物は漏れなく攻撃を受ける。悪人と決めつけられたら、悪人のレッテルを消すことはできない。罪を犯したと言われたら、一生その罪を背負っていかなければならない。
共産党とは何者だろうか?共産党は天、地、人と闘おうとしているため、天、地、人を壊滅させることを目的としている。
天との闘いとは、無神論で、神仏への信仰を放棄し、無神論を普及させることである。
地との闘いとは、山や川を改造するという名目で自然破壊、環境破壊を進めている。これは無神論の「何に対しても畏敬の念を抱かない」という考えの具現化である。
人間との闘いとは、仲間を殺すことである。共産党の邪悪な要求に従わない党員を粛清し、共産党の邪悪さを強化する。文化の伝承者である社会のエリート層を含め、邪霊の計画にとって邪魔な人を抹消する。また、社会で恐怖の場を維持するために、無差別の殺戮を繰り返し、国民と国民との闘いを仕向ける。
殺戮には幾つかの目的がある。一つ目は作り上げた敵を消滅するためである。二つ目は殺人の罪を犯した者は以後、共産党に従うしかなく、共産党の手先となり殺人に関わりつづけることになる。三つ目は恐怖の環境を作り、すべての人を恐怖に陥れる。邪霊は文化と道徳の破壊に着手する以前、殺戮という手段で地ならしを行っていた。
特に、宗教関係者や知識分子が大量に殺害され、文化の断層ができた。それによって、中国人の信仰と伝統文化とのつながりは断ち切られた。これは人類を堕落させ、最終的に人類を壊滅させる計画では極めて重要な一歩である。しかし、これに気づいている人はほとんどいない。
殺戮はいつまで続くのか?
共産党が大々的に殺戮を行ったのは、人々を屈服させるだけでなく、殺戮に対する恐怖を人々の骨身に染み込ませ、代々受け継がれていくようにするためである。
ここまで進んだなら、これまで公に行われた殺戮は陰で進められるようになる。1950年から始まった土地改革、反革命分子への弾圧、「三反五反」運動および文化大革命はいずれも、公に行われた殺戮であった。人々には人殺しの見学が奨励されていた。1989年の天安門事件は半ば公開殺人であり、事件後に死者の存在を否認していた。1999年の法輪功への迫害と、その後の臓器狩りは、陰で行われている。共産党の歴史は殺人の歴史であり、殺戮を推奨しなければ、無神論を中国の隅々まで広めることができなかった。神から伝わった文化を破壊し、中華民族を畏敬の念のない民族にすることもできなかった。
1、ソ連での実験
人類を壊滅するなら、まず中国文化を破壊しなければならない。邪霊は中国の隣国で、国土も人口も相当な規模の大国であるロシアを選んで実験を行った。ロシアは中国に近く、経済、軍事と政治上、中国共産党を支援できるためである。ロシアは領土面積が広く、人口も多いので欧州各国からの包囲討伐および第二次世界大戦中のドイツの進攻から逃れることができた。共産主義はそこでなんとか生き延びることができた。
ソ連が建国した当初、国力を傾けて革命を輸出し、中国はその対象となった。まずグリゴリー・ヴォイチンスキーを中国に派遣し共産主義グループを作った。また、ミハイルボロディンを通して国民党に「ソ連と連携し、共産党を容認する」方針を受け入れさせた。これで中国共産党は国民党を頼りに速やかに成長した。
ソ連は建国して早急に、チェカーという全ソ連反革命粛清委員会を設置した。これは暴力殺人で恐怖の環境を作るために行われた実験だった。レーニンは、専制政治とはいかなる法律にも制限されず暴力によって維持される政治であると考え、審判せず恣意(しい)に殺人する権限をチェカーに与えた。研究によると、1917年から1922年までチェッカーに殺害された人は数百万人まで達していた。さらに、1921年~22年にかけて発生した大飢饉で、天候不順に加え、農民が生存していくための最低条件となる農産物までソ連政府が没収したため、500万人が命を落とした。
ソ連はもう一つ重要な実験を行った。すなわち、暴力を通じて無神論を根拠とする共産邪説で社会を統治するということである。それ以外のイデオロギーは宗教であれ、伝統文化であれ、いずれも消滅の対象となった。
1917年、政権を握ってからレーニンは、ただちに宗教を取り締まり、伝統文化を破壊し、人々は神への信仰を放棄した。これは中国文化を破壊するために行った実験である。
レーニンは宗教を弾圧すると同時に、無神論を宣伝していた。「科学社会主義の理論と実践において無神論はマルクス主義から当然、分割してはならない部分である」と言いふらした。1917年にソ連が政権を握ったその日から、すぐさま文化の破壊、信仰の消滅を主たる目標とする革命を始めた。
レーニンの死後、スターリンがその衣鉢(いはつ・師から伝えられるその道の奥義)を継承し、
30年代から残酷極まりない粛清を始めた。共産党内部党員以外に知識分子や宗教界の人々も粛清のターゲットとなった。
スターリンはかつて「無神論五年計画」を実施すると宣言した。この計画を達成した際に最後の教会が閉鎖され、最後の神父が消滅され、ソ連は共産主義の無神論の肥沃な土壌となった。宗教は跡形もなく抹消された。
控えめに見積っても大粛清の中、迫害によって死亡した神父は4万2千人を超えた。1917年10月までは、4万余りの東方正教会があったが、1939年になると、それが百あまりしか残っていない。98%の教会や修道院は閉められ、数多くのエリート層が懲役刑を言い渡され、グラグ(強制労働収容所)に送り込まれ、処刑された。
スターリンの死去からソ連の解体まで、知識人や宗教関係者は抑圧されつづけていた。有名なロシアの小説家で歴史学者・アレクサンドルソルジェニーツィンによると、スターリンの執権中だけでも、6千万人が非業の死を遂げたという。
中国は人類五千年の歴史の舞台であり、正と邪の最後の戦いが中国で行われると定められている。そのため、ソ連は実験終了後、崩壊した。それとともに一時、勢力を振るっていた共産主義陣営も解体した。
2、中国共産党の登場
第二次世界大戦後、ナチズムは消滅したが、邪悪な「共産圏」が誕生した。共産圏は最盛期、世界の3分の1の人口を統治した。殺された人の数、文化への迫害の深刻さから見ると、中国共産党はすべての共産主義政権の中で最も邪悪であり、中国で行われた文化の破壊は実によく練られた画策であった。
中国の伝統文化は創造主が最後の時期に衆生を救い済度するために作ったのである。中国の伝統文化を破壊することが共産邪霊の主な目的である。暴力は人間の肉体を消滅することしかができない。しかし、文化の破壊は、中国人の魂を消滅できる。邪霊はこれをよく知っている。計画的に知識人を消滅すると同時に、脈々と受け継がれた伝統文化の精神性と有形の文化財をも破壊した。これで神と人とのつながりを断ち切ることになり、人間は伝統文化の壊滅とともに、終焉に向かっていく。共産邪霊はこのように最終目的を達成しようとしている。
暴力で社会の礎を破壊し、知識人を抹消する一連の政治運動のなか、共産邪霊は人類のあらゆる悪の手口を集め、殺戮や洗脳、欺瞞(ぎまん)、弾圧などの手段を極め、最後の正邪の戦いの中で決定的な一撃のために周到に用意した。
同時に計画的、系統的に作り上げた党文化をもって、人々を洗脳し、彼らを殺戮の道具に仕立てあげた。
共産邪霊は経済利益や洗脳などで人々を屈服させる術を熟知している。しかも、一連の運動、弾圧と殺戮の中、これらの術を極めていた。
3、社会エリート層の抹消
農村の地主や名士、都市の商人、知識人と政府の官僚などのエリート層は中国五千年の文化を受け継いできた。彼らを抹消することは伝統文化を破壊する重要な一歩である。そこで、中国共産党がは農村部で地主や名士を、都市部で商人や知識人を敵に仕立て、次々と殺した。恐怖の場を作ると同時に彼らの財産も巻き上げた。
中国共産党が政権を握る前に行った「豪族を打倒し、土地を貧しい人に分けよう」と呼ばれる土地改革は、暴力で農村部の文化伝承者を消滅することを目的としていた。共産党は農民に土地を与えるつもりはないが、いつもの手口で農民に少しばかりの利益を与えた。地主と名士を殺害し地元文化の破壊もやり遂げた後、人民公社や合作社などの形で農民から土地を回収した。結局、農民は依然として、苦しい生活を強いられていた。
都市部では、有産階級が槍玉に挙げられた。理由は二つある。一つは彼らから財産を奪うためである。もう一つは彼らが社会の富を産出していると同時に、社会の安定と繁栄を維持し、伝統文化を受け継ぎ、西洋の自由と人権などの思想も持ち合わせているからである。
僧侶、道士は仏道の理念を伝播する役割を果たしていた。中国共産党は矛先をまず宗教に向けた。というのは、宗教は神への信仰と直接に関連しているからである。殺戮、投獄、洗脳、強制還俗、宗教教義の改ざんを経て、共産党に完全に服従した宗教のならず者は仏教教会や道教協会を設立した。これらの機関は、宗教をコントロールし破壊するための道具となった。。
出家者であれ、社会のエリートであれ、いったん消滅されたら、文化に断層が生じてしまう。宗教を掃討すると同時に、共産党が知識人に対して思想改造の運動を行った。いわゆる唯物論、無神論と進化論の教育を通して学生に対して系統的な洗脳を行い、伝統文化への憎悪の念を抱かせた。反右派闘争を通して、信念を曲げたくない知識分子に対して労働による改造を行った。彼らは一夜にして、社会の最下層に落とされ、生活や世論をもって彼らを抹消しようとした。かつて発言権を有し、社会世論の主導者だった知識人はあの時代では軽蔑や嘲弄(ちょうろう)の対象となった。
反右派運動後、家庭でも学校、社会でも、本音はもう聞こえなくなった。このような環境に育った学生は神仏への信仰を持っていないだけでなく、伝統文化に対しても畏敬の念を抱いていない。しかし、共産党はこれだけで満足していない。年長者の記憶に伝統文化がまだ刻まれており、伝統文化の息吹を持つ文物古跡はいたるところで散見する。伝統の価値観が芸術家によって伝播されているからである。共産党は、洗脳された学生の思春期の反発心を利用して 1966年8月、旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣を打破する「破四旧」と呼ばれる運動を展開した。あらゆる古文書、図書、書画などが紅衛兵の「革命」の対象となった。中国の伝統文化の有形物はかつてなかった災いに見舞われた。
殺戮を通して中共は一石数鳥の効果を収めた。第一、恐怖の雰囲気を作って、あらゆる反抗しようとする人を脅す。第二、社会の富を奪い、政権の力を強める。第三、人民を貧困と不安定の状況に陥れ、日々の暮らしだけで精いっぱいで、教育や文化の伝承を考える余裕もない。第四、人々の暴力への感覚が麻痺した。なぜなら、共産党の殺戮に対して、感覚が麻痺していなければ、それに納得できず、正義感から反抗するようになるからである。中国人の道徳観はこのように堕落してしまった。第五、文化の断層を作り、中国人が自ら自分の文化を唾棄し、最後の救い済度される機会を失ってしまう。
上述の五つの目的はがどれほど達成されたのであろうか? 中国共産党の殺戮の方法や殺害された人数から分析してみる。
1)農村部と都市部での殺戮
1950年3月、「反革命分子を厳しく鎮圧する」との号令が出され、いわゆる「鎮反」運動が始まった。1951年2月、殺されるべき農村部の反革命分子の人数は人口の千分の一を上回るべしという新たな指示が出された。この数字で計算すると、当時の人口は6億で、そのうちの60万人が殺された。共産党が公表したデータによると、1952年に殺害した反革命分子は240万人だったが、実際には500万人以上が死亡し、人口の約百分の一を占めた。
ほかの数字からも、このような殺害による文化への破壊の程度を読み取ることができる。「1949年上海黄浦地区は青壮年のうち、81.4%は非識字者であり、特に貧農や下層中農の家から識字者が一人も見つからなかった。例えば、沈家浜村では24世帯のうち、19世帯は三代にもわたって塾に入ったことがなく、家に鉛筆一本も見つからず、手紙を書く際にも2キロ先の町に出て代筆を求めなければならない」すなわち、大量の地主や名士が殺害されたため、地域の知識人が完全に消滅した。
鎮反や土地改革は地主や富農を殺していたが、その後の「三反五反運動」は都市部の有産階級を標的にした。つまり、伝統教育を受け、企業経営に精通し、あるいは西洋の自由理念に触れた都市部の人々が狙われた。
2)宗教を消滅、伝統の信仰とのつながりを断ち切る
伝統の信仰は中国文化の源である。中国文化は神によって世間に伝わってきたもので、伝統的な信仰は神が直接作ったのである。中国において、もっとも影響力のある信仰は道家、仏家と儒家である。これらの信仰は佛とは何か、道とは何かを人々に伝え、さらに人間の行動規範も教えていた。数千年来、神仏への信仰心は中国人の道徳水準を高いレベルで維持してきた。
1950年、中国共産党は各地の宗教組織、会道門および関連団体を取り締まる通達を出した。この全国津々浦々まで波及した運動の中、政府が信頼のできる階級を動員し、各種の会道門を摘発した。迷信というレッテルを貼られたキリスト教、カトリック教、道教および仏教組織は解散させられた。これらの組織に所属した人は各政府まで出頭し、反省と悔悟を求められた。出頭しない人は容赦なく厳罰される。1951年、政府は会道門の活動を継続する人を死刑や終身刑に処すという規定を出した。
中国の宗教団体は中国共産党の暴力で解体した。仏教、道教の信者は殺されたり、還俗させられたりした。仏教界や道教界に隠れた共産党員がおり、彼らは袈裟や道士の服を身にまといながら、お経や道教の経典から共産党の運動を正当化する根拠を探していた。正しい信仰が壊され、地主や富農、知識人らは殺されたり、監禁されたりして、残った人は戦々恐々の日々を送っていた。
3)思想改造を行い、無神論が学校を支配
中国共産党は知識分子のエリートを改造、弾圧そして消滅するまでの計画を周到に用意した。知識人、特に大学の教員に対する思想改造は共産党政権が樹立した当初から着手した。民国時代の教育専門家やハイレベルの知識人に不安を覚える共産党でも彼らを学校から追い払うわけにはいかなかった。なぜならば、専門家のいない学校は機能せず、技術者を養成できなくなるからである。そこで、共産党は大学・学部を調整する方法をとった。まず、宗教団体が運営する教会大学は閉鎖した。なぜなら宗教信仰はマルクス主義と相いれないからである。同時に私立大学を改造し、哲学や社会学などの学部を撤廃した。この分野の専門家や卒業した学生は政治や社会問題に自分の考えや理念を持っているため、共産党政権にとって大きな脅威となりかねないからである。また、中国共産党が旧ソビエトの教育システムを導入し、思想や学術の自由を尊重する民国時代の教育を変えた。強制的な思想改造によって、技術のみを重視し、信仰のない大学の教員と生徒は、共産党に恭順的になった。
1950年から1953年まで大学・学部の調整によって、多学科の総合的大学の割合は1949年の24%から1952年の11%まで下がった。悠久の歴史を持つ一流大学が価値や地位を失い、工学専門の高等学校に衣替えさせられた。新設の工学専門の高等学校が急増し、旧ソビエトモデルが撤底した。
アメリカモデルの人文学科は民国時代には後世への影響力を持ち、優秀な歴史、哲学と社会の学者を数多く輩出した。アメリカモデルの教育システムが培ってきた人材はマルクス主義のイデオロギーとは相いれないため、「小資産階級」というレッテルを貼られた。マルクス主義と相いれない教育システムは撤廃された。特に社会学は中国大陸から完全に消えた。
大学・学部の調整のもう一つの目的は民国時代の大学や学部をバラバラにすると同時に、民国時代の大学で育った教員や教授に元の学校とのつながりを断ち切らせることにあった。これで共産党が知識人をコントロールしやすくなり、共産党の強権統治を強固なものにすることができる。
北京大学の学長だった馬寅初は1951年10月23日、「人民日報」に「北京大学の教員の政治学習運動」という文章を掲載した。文章に「国家の需要に従い、大学と学部の調整を徹底しなければならない。この目的を達成するために、もっとも肝心なのは自ら進んで思想改造を行うことである」という文言があった。この内容は学院学部調整の目的を明らかにした。つまり、思想改造を行うことである。
大学と学部を調整することによって、1949年政権奪取後共産党が初めて知識分子を服従させたといえる。
4)知識人を弾圧、虚言を強要
1949年以前、中国には200万人の知識人がおり、中には留学経験を持つ人が少なくないものの、 伝統文化にある基本的政治観「天下を平らかに治めるには,まず自分のおこないを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国を治めて次に天下を平らかにするような順序に従うべきである」をある程度継承した。当然ながら、中共は彼らを見逃さない。知識人の考えは社会間のイデオロギーに莫大な影響力を持っているからである。
1957年5月、中国共産党は「百花斉放、百家争鳴」(さまざまな花を開花させ、さまざまな思想を戦わせよう)のスローガンを掲げ、国の政策に対する意見や批判を歓迎するというキャンペーンを実施した。目的は反体制派狩りである。中共は「責任を追及しない、レッテルを貼らない、懲罰しない、発言する者に罪はない」と約束した。当時、章伯均、龍雲、羅隆基、呉祖光、儲安平などの著名な知識人は共産党の各種弊害を直言した。しかしながら、一夜にして情勢が急変した。同年10月15日、党中央は「右派分子を決める基準」通知を出し、1958年には55万人の右派が辺境への労働改造や失職などの憂き目に遭い、あるいは死亡した。
この運動は人民に明確なメッセージを出した。つまり、共産党の統治下で真実を言う人間は悲惨な運命を辿ることになる。さらに、一連の運動で、全員が摘発や批判に参与しなければならず、沈黙を保つ権利まで奪われた。
「虚言」は党文化の中で最も代表的な悪行といっても過言ではない。一連の政治運動を通して党文化で物事を考えたり、問題に対処したりするように中国人を訓練した。特に中国人が虚言に慣れ、あらゆる虚偽、ねつ造に対して平気でいられるだけでなく、自身も虚言をつき、何の後ろめたさもない。
今日の中国でニセたばこ、ニセ酒、ニセ薬、ニセ食品、ニセ学位、偽装結婚、偽装離婚が横行している。虚言への罪悪感がなくなれば、自身も嘘つきになる。「真」(嘘をつかない)という道徳基準を放棄すれば、良心の呵責(かしゃく)が人々の心から消えてしまう。
反右派運動は中国の伝統道徳と文化を破壊する上での重要な一歩である。知識人とエリート層の消滅とともに、共産邪霊が中国伝統文化の伝承経路を断ち切った。その後に生まれた若者は家庭、学校、社会、地域から道徳教育を受けられなくなり、教養のない世代となった。
文化破壊を目的とする一連の運動を経て、都市部でも農村部でも、伝統文化を受け継いできたエリート層がほとんど消滅した。同時に唯物論や無神論および党文化の教育を受けた世代が成人した。彼らは暴力的な思想と行為の持ち主で、文化への破壊は次のステップに進んだ。
5)人間を人でなしに改造
1966年5月16日に共産党が「中国共産党中央委員会通達」(五一六通達とも呼ばれる)を出し、今まで以上の規模で伝統文化を破壊する運動を発動した。これはすなわち、文化大革命である。同年8月、共産党高級幹部の子どもを主体とする北京市の紅衛兵が北京市の広範で財産没収、殴打、殺戮を始めた。1966年8月下旬だけで、北京市で千人以上が死亡し、「赤い八月」(血で染まった八月)と呼ばれていた。
文化大革命で行われた暴行の数々については『共産党についての九つの論評』が詳しい。ここでは文化の破壊という角度から、暴力行為が中国人に与えた傷害について述べたい。
北京大興県の殺戮事件を例に説明する。1966年8月27日~9月1日まで、大興県13の人民公社に所属する48の生産大隊で325人が殺害された。中には80歳の高齢者もいれば、生後わずか38日の赤ちゃんもいる。22世帯は全員惨殺された。殺人の手段に関して、棒で殴って殺したり、まぐさ切りで押し切ったり、縄で絞殺したりするなどさまざまであった。赤ちゃんの場合、片足を踏みつけてもう片足を力強く引っ張って赤ちゃんの体を引き裂いた。
このような暴行の実行者は良心や人間性のかけらもないが、傍観者も惻隠(そくいん・あわれみ)の情を捨てなければこの光景を見るに堪えられない。つまり、中国伝統文化の「仁」の価値観が放棄された瞬間だった。
「惻隠の情なしには人間にあらず」という古い教えがある。このような人間としてのあるまじき行為を共産党は奨励している。多くの人が「素晴らしい行動」を見せたため、即時入党を認められた。広西省では、大まかな統計によると、文化大革命で9千人あまりが人を殺した後に入党し、2万人余りは入党後に殺人を始めた。また1万9千人あまりが殺人に関わっていたという。広西省だけで殺人事件に関与したのは5万人近くいた。
その後の1989年の天安門事件および1999年から始まった法輪功への迫害で、積極的に加担した者、残忍な手段で迫害に関わった者は表彰された。ボーナスを支給され、昇進を果たした。特に法輪功学習者への弾圧の中で、迫害の急先鋒だった羅幹、周永康は江沢民に政権の最高指導部メンバーである「政治局常務委員」まで抜擢された。
中国共産党は一国の力を傾けて法輪功を迫害してきた。古今東西の拷問方法が駆使された。殴打のほか、性的虐待を加えたり、厳寒と酷暑のなか外に立たせたり、体の限界を超える重労働を科したり、長時間にわたり睡眠を奪ったり、毒蛇、狂犬或いは群をなす蚊を放し法輪功学習者を咬ませたりする、などなど。もっとも残酷なのは法輪功学習者の臓器を生きたままで摘出することである。
ジェノサイドに当たるこの迫害に対して人間であるかぎり、反対する義務がある。共産党は全国民にこの迫害に関わるよう強制した。このようにすれば、国民は正邪、善悪、是非を識別する能力のない人間になり、共産党の暴虐を助長するのである。このような人間はもはや、人間とは言えない。
神が世にやってきて人々を救い済度するが、その対象は人間と呼ぶにふさわしい者である。中国共産党に人間性を奪われた人は、救い済度される機会を失い、地獄に打ち落とされるにちがいない。
共産邪霊が暴力と殺戮を仕向ける際、その行為が正しいのであって、同情心は無用だと喧伝している。「敵に対しては厳冬のように冷酷無情な扱いをしなければならない」というスローガンもあるほどだ。共産党のあらゆる悪行の裏に伝統文化を破壊し、道徳の壊滅という目的が隠れている。党文化の教育を受けてきた中国人は共産邪霊の手先となり、殺人の凶行に駆り立てられた。
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