【第六評】中国共産党による民族文化の破壊

序文

    文化は一つの民族の魂であり、人種や大地などといった物質的な要素と同じく重要な精神要素である。

    民族の文明史はその民族の文化発展史でもあり、民族文化に対する徹底的な破壊は、その民族の消滅であるとも言えるだろう。人類の歴史上、すばらしい文明を創り出した民族は、現在、その人種としてその子孫がまだ残っている.が、民族としてはその伝統的な文化が失われるにつれてだんだん姿を消してしまった。世界各国を見ると、中華民族は唯一五千年の文明を受け継いでいる。それゆえ、その文化に対する破壊はさらに大きな罪となるに違いない。

     「盤古は天地を開く」[1]、「女 (じょか)は人間を造る」[2]、「神農は百草を嘗める」[3]、「蒼頡(そうけつ)は文字を造る」[4]などの伝説は神が文化を伝える当初の様子を私たちに伝えている。「人法地、地法天、天法道、道法自然(人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る)」[5]では、天人合一という道家の思想を文化に織り込み、「大学之道、在明明徳(大学の道、明徳を明らめるに在り)」。[6]二千年前の孔子は初めて学校を開き、儒家思想を代表する「仁、義、礼、智、信」を社会に伝えた。紀元1世紀、「慈悲済度」を訴える仏教は東へと伝わって行き、中華文化はさらに豊かになった。儒、仏、道三家の思想は互いに照り映し、盛唐時代、世界中の人々からそれぞれの素晴らしさが注目された。

    中華民族は歴史上何度も侵略と打撃を受けたことがあるが、私たちの伝統的な文化は非常に強い融合力と生命力を持つため、その精華はずっと後代に伝わってきたのである。「天人合一」は私たちの先祖たちの宇宙観を表し、「善悪には報いがある」は社会の常識で、「己所不欲、不勿於人(己の欲せざるところ人に施す勿れ)」は人間の基本的な美徳であり、「忠、孝、節、義」は人々の人柄を為す基準であり、そして、「仁、義、礼、智、信」は人と社会の道徳を規範する基礎である。このような前提の下で、中華文化には誠(実)、善(良)、そして和(貴と為す)、(包)容などの優れた特徴が顕われた。人々が祭る「天地君親師」という位牌は、神(天地)を敬い、社稷(君王)に忠誠し、家庭(親)を大事にし、師道を尊敬するという文化が世の中の人々の中に深く植え付けられていることを示している。中華伝統文化は天と人の調和を追求し、個人の修養を重視し、人々が包容でき、発展でき、人間の道徳が守られ、さらに人々が正信を持つことができるように、儒仏道家の修煉信仰に基づいている。

    人々を強制的に抑制する法律と違い、文化による抑制は柔和的で最も効果的なものである。法律は、罪を犯したら、どのような刑罰を与えるかということを重んじる。しかし、文化は道徳を育成することにより、犯罪を予防するという役割を大いに果たしている。一つの社会の倫理価値観は、その文化を通し、具体的に反映できたのである。

    中国史上、伝統文化がその頂点に達した唐の時代は正に中華という国の国力がその頂点に達した時でもある。当時の科学技術も世界中で最も先端に立っていた。そのため、欧州、中東、日本から多くの学生が唐の都である長安に留学した。また、唐の周辺の国々は中国を宗主国として見なし、万国からの使者が中国に訪ねた。[7]秦の時代から、中国もよく少数民族に侵略されていた。その中に、また、隋、唐、元、清と他の民族がそれぞれ割拠していた時代もあった。しかし、それらの民族はほとんど漢民族化されたのである。「故遠人不服、則修文徳以来之(遠きが故に人服せずば、則ち文徳を修するを以って之を来たらしむ)」と孔子が言ったように、これは、伝統文化の強大な同化力の働きであると言えるだろう。[8]

    1949年、中国共産党が政権を奪い取った後、国家のすべてをかけて私たちの民族文化を破壊し始めた。これは、共産党が工業化を進めよう、あるいは西洋諸国と同等に並びたいという熱意からの行動ではない。そもそも、イデオロギーの面から言えば、共産党の理論は民族の伝統文化とまったく正反対なものである。共産党の文化への破壊は実に、組織的に、計画的に、かつシステム化されたもので、国家暴力を基礎とするものである。共産党が設立されてから今までは、中国共産党は中国文化に対する「革命」を停止したことがない。共産党は確かに中国文化の「命」を徹底的に抹消(革)しようとしてきた。

    さらに、中国共産党はこっそりすりかえるという方法を使い、古代から今日まで、人々が伝統文化を投げ捨てた後に起こった権力をめぐる陰謀に満ちた激しい戦い、独裁専制などをさらに広め、彼ら独自の善悪を量る標準や物事の考え方、言語方式を造り出し、人々に「党の文化」は伝統文化の継承であると認めさせた。また、彼らは人々の「党の文化」への反感を利用し、さらに中国真正の伝統文化を放棄させようとした。

   これは、結果として中国に災難をもたらした。人々は道徳的な抑制を失っただけではなく、中国共産党に強制的にその邪悪な学説を注入されたのである。

一、どうして共産党は民族文化を破壊しようとしたのか?

(一)源は遠く流れは長いというほどの中華文化──信仰為本道德為尊(信仰を本とし、道徳を尊とする)

   中国人の真正の文化は五千年前に黄帝によって造られた。そのため、私たちは黄帝を「人類と文化の祖」と呼んでいる。実は、黄帝は中国道家思想の「黄老之学」の創始者でもある。孔子は「志於道、据於徳、依於仁、游於芸(道に志し、徳に据わり、仁に依り、芸に遊ぶ)」や、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」[9]と話したように、儒家思想は道家から強い影響を受けた。また、天地、陰陽、宇宙、社会と人生規律を記述する『周易』は儒家に「群経の首」と呼ばれた。その中の予測学は、現代の科学技術さえできないものである。仏家思想、特に禅宗思想は少しずつ学識者に影響を与えてきた

    儒家思想は伝統文化の中の「世に入る」という部分であり、家庭倫理を重視するものである。そのため、儒家思想の中には、「孝」という考え方がほとんどを占め、曰く「孝は百善の先と為す」。孔子は「仁、義、礼、智、信」を主張すると同時に、「孝悌也者、其為仁之本歟?(孝悌は、其の仁の本なる歟?)」としている。

    家庭倫理は自然に社会倫理と発展した。「孝」は大臣が君主への「忠」と拡大でき、いわゆる「其為人也孝悌、而好犯上者、鮮矣、(其れ人にして孝悌を為し、而して上を犯す者鮮(すくな)し)」とも話していた。[10]

   「悌」は兄弟関係を表し、それは友達の間の「義」へと広げられる。儒家は家庭の中において、父はやさしく(慈)、子供は親孝行を行い、兄は友好的で、弟は恭しくなければならないと主張している。また、その中の「慈」は君主の大臣に対する「仁」に広げられる。「修身、斉家、治国、平天下(身を修し、家を斉しくし、国を治め、天下を平らげる)」と言ったように、家庭の中の伝統が保たれれば、社会倫理も自然に維持できる。[11]

   仏家思想と道家思想は伝統文化の中の「世を出る」という部分である。仏、道教文化は普通の民衆生活への影響が至る所にあるというほど強いのである。道家思想と深く関係しているのは、漢方医学、気功、風水、占いがある。そして、仏家の天国地獄、善悪に報いがあるなどという思想や儒家倫理を加えて、中国伝統文化の核心を構成したのである。

    儒、仏、道、この三種類の信仰は中国人に一つの極めて安定した道徳体系を造り上げたのである。「天が変わらなければ、道も不変である」。[12]この道徳体系は社会が存在し、安定でき、協和できる基礎である。

    精神的な面から言えば、道徳はとても抽象的であるが、文化は人々にその道徳体系を分りやすく表現するという重要な役割を担っている。

    中国に有名な書物が四冊ある。『西遊記』[13]自身は、神話である。『紅楼夢』[14]の冒頭の大荒山無稽崖で空空大士、渺渺真人や通霊宝玉の間の対話は、同作品における多くの謎を解く鍵である。『水滸伝』[15]の冒頭では、「洪太尉が誤って妖邪に走った」と話した。この神話は水泊梁山の百零八将軍の由来を説明している。『三国演義』[16]では始めに、天災が警告を示し、また、最後に「紛紛世事無窮尽、天数茫茫不可逃(紛紛たる世事は無窮にして尽きず、天数茫茫として逃がれる可からず)」いう天命観で結論を結んだ。また、『東周列国誌』[17]や『説岳全伝』[18]などはみな同じような物語で始めている。

    これは、決して作者達が言い合わせたかのように書いたのではない。それは中国の学識者の自然界や人生に対する基本的な認識が同じだからである。彼らの作品は後代の人々に大きく、しかも強い影響を与えた。そのため、中国人が「義」について話すとき、どのように「義」を解釈するかを考えるのではなく、「義薄雲天(義薄くして天に雲)」と言う関羽(『三国演義』の人物)や、そして、彼に関連する「屯土山約三事(土山を屯して、三事を約す」、「白馬之囲(白馬の囲い)」、「五関を過ぎ、六将を斬る」、「華容道」、最後に麦城で失敗して、「義不屈節、父子帰神(義節に屈せず、父子神に帰す)」などの物語を思い出すのである。「忠」について話すとき、自然に岳武穆が忠誠に国のために戦ったこと、諸葛亮「鞠躬盡瘁,死而後已(献身的に力を尽くし,死ぬまでやりぬく)」などの物語を思い出すのである。

    伝統的な価値観の中で「忠義」に対する賛美は作家たちが書いたすばらしい物語を通じ、人々の前に完全に現れている。抽象的な道徳説教は、文化の方式によって具体的に、また形象化された。

    道家は「真」を、仏家は「善」を、そして儒家は「忠恕」、「仁義」、「外略形跡之異、内證性理之同、……無非欲人同帰於善(外略形跡異なれども、内証性理は同じ・・・人欲せずとも同じく善に帰す)」を重んじる。[19]これはまさに「儒、仏、道」の信仰に基づく伝統文化の最も価値のある部分である。

    伝統文化の中で「天、道、神、仏、命、縁、仁、義、智、信、廉、恥、忠、孝、節」などを貫いている。おそらく文字を読めない人は多くいたかもしれないが、彼らは伝統的な演劇や評書などの文化形式を通じ、伝統文化から価値観を得ることができた。従って、中国共産党による文化の破壊は、直接に中国人の道徳を破壊し、社会を安定する基礎を破壊したこととなる。

(ニ)共産党の邪説は伝統文化と対立している

    共産党の哲学は、中国真正の伝統文化と正反対である。伝統文化は天命を敬い畏れる。孔子は「死生有命、富貴在天(死生は命に有り、富貴は天に在り)」と考えている。[20]仏家と道家思想は有神論であり、生死は輪廻し、善悪に報いがあると信じている。共産党は無神論を信じているだけではなく、無法無天と主張している。儒家は家庭倫理を重んじているのに対して、共産党は『共産党宣言』の中で、家庭を消滅させるよう明確に書かれている。また、伝統文化では「明夷夏之辨(夷と夏の弁え)((民族共存の教え))」と教えているが、『共産党宣言』は『民族消滅』と鼓吹している。儒家文化は「仁者は人を愛する」との教えに対し、共産党は階級闘争を主張する。儒家の君王に忠誠し国を愛するという主張に対し、「祖国消滅」と『共産党宣言』の中に書かれている。

    共産党は中国において確固とした政権を確立するため、まず人々の倫理思想を破壊しなければならなかった。毛沢東は「一つの政権を倒すために、まず世論を造り出さなければならない。つまり、イデオロギーの面でまず何かのことをしなければならない」と話した。[21]中国共産党はそれをかなり理解しているようである。共産党の暴力的な理論は、武力に支えられており、西洋思想のゴミのようなものであり、中国の五千年の奥深い伝統文化と対抗できないため、共産党は徹底的に中華文化を破壊したのである。そのため、マルクス・レーニン主義が中国の政治舞台に躍り出ることが出来たのである。

(三)民族文化は中国共産党の独裁を阻む

    毛沢東は以前、「私は傘をさす僧侶である—無法(髪)(中国語では、髪と法の発音が同じ)無天だ」と話したことがある。[22]民族文化の存在は間違いなく、「無法無天」である中国共産党にとって最も大きな障碍だったであろう。

    伝統文化の中の「忠」は決して「盲目的な忠」ではない。人々から見ると、皇帝は「天子」であるが、その上には「天」がある。皇帝は常に正しいとは限らないので、そのため、皇帝の誤りを正す大臣や官員を必要とするのである。また、中国には史官が皇帝の言行を記録する信史制度があった。士大夫は「帝王の師と為す」、皇帝の言行が良いか悪いかは儒家経典によって量られていた。また、人々は無道な皇帝を倒すこともできる。例えば湯が桀を伐ち武王が紂を伐ったことは伝統文化の観点からも不忠不義には当たらず、大逆不道でもなく天に替わって道を行ったことになる。[23]文天祥[24]が捕虜となり宋朝の皇帝自ら降伏を勧めたがこれを聞かなかった。儒家では「民を貴と為し、社稷は之に次ぎ、君を軽と為す」と説くからである。[25]

   これらのことは独裁中共にとって許されないことである。彼らは「主要な人物を神格化しよう」(即ち、個人崇拝)と願い、自分の上に存在する伝統文化の中にある「天、道、神」などのものに束縛されたくなかった。それは、伝統文化での共産党の言行を量れば、全部極悪なものであり、伝統文化が存在する限り、人々はその「偉大さ、光栄さ、そして正しさ」を賞賛しない。学識者たちは「命を捨て義を取る」[26]、「君を軽と為し、民を貴と為す」などの価値観を残せば、彼らに従うことをしないので、全民が「思想統一」することはないだろうと共産党自身も分かっていたのである。

   伝統文化の天と地への敬畏は、中国共産党が天地と戦うための障碍である。伝統文化の中の「人命は天に関係している」という考え方は命を大切にすることを訴えている。しかし、これは中国共産党の「集団虐殺」による恐怖統治を阻む。伝統文化の「天道」は道徳善悪を量る最終基準である。しかし、共産党には道徳を解釈する言葉はない。そのため、中国共産党は伝統文化が彼らの政権維持にとって最大の障碍であると見なした。

(四)伝統文化は中国共産党の執政合法性に挑戦する

    伝統文化の中には「有神論」と「天命論」を含んでいる。「天命」を承認すれば自分が「有道明君」であり、「奉天承運」を行っているとの証明になる。「有神論」を承認すれば、まず「君の権力は神から授けられた」と認めなければならない。また、中国共産党の執政理論は「救世主など存在しない。人類の幸福を創り出すのは、神仙や皇帝に頼るのではなく、私たち自分自身に頼るべきだ」と話している。[27]

    中国共産党は「歴史唯物主義」を宣伝し、「共産主義」は「人間天国」であると宣揚した。また、この「人間天国」へ導くのは「無産階級先鋒隊」である共産党の指導である。有神論を認めれば、中国共産党の執政合法性に挑戦することとなる

ニ 共産党はいかに伝統文化を破壊したか

     中国共産党のすべてはその政治行政に使われていた。その暴政を維持し固めるために、共産党は邪悪な党性で人性を「偽、悪、争」という党文化により、中国伝統文化と入れ換えた。この種の破壊と入れ換えは、文化遺跡や古書などの目で見えるものだけではなく、人の行為や思想、生活スタイルなどの面から、人々の伝統的な価値観、人生観、世界観を変えた。しかし、一方、彼らは伝統文化の重要でない部分を「精華」と呼び、保留してきた。その「精華」を表面の飾りとし、その中身に共産党文化をこっそりすりかえ、「中国の伝統文化を承継し発展する」というスローガンを揚げ、国際社会と人々を騙してきた。

(一)三宗教を同時に滅亡させる

   伝統文化は儒、佛、道という三家の思想に基づくものなので、中国共産党が文化を破壊するまず第一歩は文化の具体的な体現である宗教を取り除くことである。

    三教は歴史上、何回も破壊を受けたことがあった。例えば、佛教は歴史上、四回の大法難とも呼ばれる破壊を受けたことがある。歴史はこの四回の法難を「三武一宗」が仏を滅すると呼んでいる。北魏太武帝[28]と唐武宗[29]は道教を興すために佛教を滅したのである。北周武帝[30]も道教と佛教を共に滅したが、儒教を尊んだ。また、周世宗[31]は仏像を壊し貨幣を作るために佛教を滅したが、儒教や道教には何も触れなかった。

    しかし、中国共産党だけが、この三つの宗教に対し滅亡させようとしていた。

   中国共産党が政権を確立した当初、すでに寺を壊し経典を燃やし、僧侶や尼を強制的に還俗させたほか、他の宗教施設の破壊もずっと止めなかった。60年代には、中国の宗教施設はもうほとんど残っていなかった。文化大革命の時、「破四旧」[32](思想、文化、風俗、習慣の破壊)は宗教や文化への更なる災難であった。

    例えば、中国最初の佛教寺院は洛陽にある東漢時代のはじめに建てられた白馬寺[33]であり、「釈教の源で祖庭である」と呼ばれた。「破四旧」の時、白馬寺は同じく悲惨に破壊された。「寺院の隣に白馬寺生産大隊があった。党支部書記は革命をすると言って、農民たちを白馬寺に連れて行き、千年前の遼の時代に土で造られた十八羅漢の像を壊し、二千年前にインドの僧侶が持ってきた貝葉経[34]を燃やしただけではなく、稀世の宝とも呼ばれる玉の馬をもばらばらに壊した。数年後、カンボジアの亡命君主であるシアヌークから白馬寺へ参拝を希望され、周恩来は慌てて命令を下し、北京故宮にある貝葉経と北京郊外にある香山碧雲寺から、清の時代に造られた十八羅漢を洛陽に運んで、やっとこの外交難題を解決した。[35]

      1966年5月、“文化大革命”[36]が始まった。この「革命」は確かに中国文化の命を革めることである。同年8月以降、「破四旧」の動きは中華大地の隅々まで広まった。寺院、道観、仏像、名勝遺跡、字画、骨董などは「封、資、修」として紅衛兵[37]たちが主に破壊する対象となった。例えば、仏像だけでも、北京の頤和園[38]万寿山にある一千尊瑠璃で造られた仏像の彫刻は、「破四旧」が終わった後、仏像は傷だらけになっていた。首都の北京がこのような状況であるから、他の地方も同じような状況となっていたに違いない。「山西省代県にある天台寺[39]は千六百年前の北魏太延の時代に造られ、その彫刻や壁画はとてもすばらしく珍しいものであった。この寺院は遠くの地方に位置しているにも関わらず、「破四旧」の関係者は当地へ行き、寺院にある仏像の彫刻や壁画を壊した。……陝西省の周至県県内に二千五百年前に老子が生徒に経文を教え、そこで道徳経を書いたという楼観台がある。……老子が当時経文を講じた「説経台」を中心とし、そこから十里[40](中国の距離を測るのに使う単位)以内には五十ヶ所の遺跡があるという。その中に、千三百年前に唐高祖李淵[41]が老子のために建てた「宗聖宮」がある。しかし、楼観台などの遺跡は破壊され、道士たちは強制的にその場から退去させられた。道教の規則によると、道士は出家後、髭を剃ってはならず、髪の毛も切ってはいけないという。しかし、多くの道士は無理やりに髪の毛を切られ、道士の服を脱がされて、人民公社[42]の社員にされた。さらに、当地の農家の娘婿となったのである。……道家聖地とも呼ばれている山東省ラォ(山へんに勞)山にある太平宮、上清宮、下清宮、闘姆宮、華厳庵、凝真観、関帝廟などは「神像、祭器、経文、文化遺品、廟の牌は、皆焼却された」という。……吉林市の文廟は全国四大孔廟の一つであるが、「破四旧」により深刻な破壊を受けた。[43]

(ニ)法の特殊な破壊方法

    レーニンは「最も簡単に要塞を攻め破るには内部から始めることである」と言った。中国共産党はマルクスとレーニンの後継としてよくこの言葉を理解している。

    釈迦は『大般涅槃経』[44]の中で、彼が涅槃後、魔王が僧侶や尼僧に生まれ変わり、男女居士と一緒に仏法を壊乱すると予言した。私たちは釈迦佛が具体的にどのような事を指しているか分らないが、しかし、中国共産党の佛教に対する破壊は僧侶から始まったのである。その時、共産党はスパイを寺院に送り込んでいた。文革のある批判会で、ある人は当時の中国佛教協会副会長である趙樸初に「あなたは共産党員だが、なぜ佛教を信じるのか」と非難した。

    釈迦佛は「戒、定、慧」を通じ、無上の正等正覚に成就できたのである。それゆえ、涅槃に入る前、弟子たちに「護持禁戒。勿得虧犯。(禁戒を護持せよ。虧犯を得ること勿れ)と教えた。また、「破戒之人、天龍鬼神。所共憎厭。悪声流布。……死即随業受地獄苦。経歴劫数、然後得出。復受餓鬼畜生之身、如是転転無解脱期(破戒の人、天竜鬼神所共に憎み厭う。悪声流布す。・・・死すれば即ち業に随って地獄の苦を受け、劫数を経歴し、然る後に出を得る。復び餓鬼畜生の身を受け、転々として解脱の期無きが如し)」と警告した。[45]

    しかし、仏の警告は政治僧侶に無視された。1952年、中国大陸で「中国仏教協会」が設立された時、中国共産党は官員を派遣した。会議中、多くの信者は佛教にある厳しい戒律が多くの若い男女の命を奪ったので、それらの戒律は取り除かれるべきだと主張した。さらに「信仰の自由、僧侶と尼僧は結婚すべきで、酒を飲むことや肉を食べることは自由にするべきだ」と主張する人もいた。当時の会議に出席した虚雲法師は、戒律を変えられれば佛教は滅亡するということが分かっていたため反対し、そして佛教の戒律や僧侶の服装を維持すると主張した。しかし、それによって虚雲法師は「反革命」の無実の罪を負わせられた。彼は方丈室に監禁され、食べ物も与えられず、トイレに行くことも許されなかった。さらに、「黄金、白銀や什器などを出せ」と法師に強要した。虚雲法師が「持っていない」と答えると、軍部らは頭部から出血させ骨を折るほど激しく殴り、法師を床に倒した。翌日、法師がまだ死んでいないことが分かり、さらに残酷に殴り始めた。当時、虚雲法師はすでに112歳だった。

    1952年に成立した中国仏教協会と1957年に成立した中国道教協会は、その発起書の中に「人民政府の指導の下」、つまり「無神論」を持つ共産党の指導の下で活動をすると明白に声明した。また、両協会は積極的に生産建設に参加し、徹底的に政府の政策を貫こうと話した。これは完全に世俗化された組織である。精進し戒律を守る出家の人々は逆に反革命分子とされ、「仏、道教の集団を浄化しよう」というスローガンの下、彼らは監禁され、労働改造され、しかも処刑されたのである。甚だしくに至っては、西洋から伝わってきたキリスト教とカトリック教も同じようなことをされた。「1958年出版した『中国共産党が如何にキリスト教を迫害したか』の中の統計によると、大陸の聖職者の中で「地主」「悪覇」という罪を負わされ、殺された人は、8840人にも達し、労働改造をされた人は39200人、「反革命」分子として殺害されたのは2450人、その罪で労働改造をされたのは24800人にも達した。[46]

     宗教は世を出る修行をする法門であることは明確であり、「彼岸」と「天国」を重んじる。釈迦はインドの王子であったが、静かに解脱[47]できる方法を求めるために、王位を放棄し、森に入って苦修をしていた。イエスは成就する前に、サタンは彼を山まで連れて行った。そこで、サタンは天下の宝を指してイエスに見せ、しかも「もしあなたが私に屈服すれば、私はこれらのものを全部あなたに与える」と言ったが、イエスはそれらの誘惑に騙されなかった。しかし、中国共産党に協力した政治僧侶、政治牧師らは「人間佛教」「宗教は真理であるが、社会主義も真理である」と多くのでっちあげを作り、「此岸と彼岸とは矛盾していない」というような言い方をする。彼らは、出家の人はこの世での幸福と富を追求するよう進め、従って、宗教の教義と内涵を変えた。

   佛教は殺生を禁止する。中国共産党は「鎮反」[48]の時、数え切れないほど多くの人を殺した。政治僧侶らは「反革命者を殺すのが一番大きな慈悲である」といい、しかも、「朝鮮戦争」[49]の時、僧侶を直接戦場に送り込み殺生させた。

    また、キリスト教を例にあげると、呉耀宗[50]が1950年に「自治自養自伝」と言う「三自」教会を設立し、「帝国主義」を徹底的に離れ、積極的に「抗美援朝(抗米援朝)」(即ち、朝鮮戦争である)に参加しようと主張した。彼の友人が「三自教会」への入会を拒否したため、二十年もの間監禁された。そのなかで、友人は多くの拷問にあった。友人は呉に「イエスの行い、神跡をどのように考えているか」と聞いた。呉は「私はこれらのものを全部捨てた」と言った。

    イエスの神跡を認めなければ、イエスの天国を認めないことになる。では、その人はキリスト教の信者であると言えるだろうか? 呉耀宗はその後三自教会の創始者から政府の高官となった。彼が人民大会堂[51]に入った時、イエスのおっしゃった「心を尽くし、品性を尽くし、意を尽くして、あなたの上帝、主を愛してください。これは、命の中で第一のことで、最大のことであろう」「上帝のものは上帝に帰する。カエサルのものはカエサルに帰する」をきっと忘れたに違いない。

    中国共産党は「寺院を没收し、洗脳を強化するため僧侶や尼僧にマルクス主義の勉強を強い、さらに僧侶と尼に肉体労働をさせた。例えば、浙江省寧波市に『佛教工場』があった。その中に、25000人ほどの僧侶と尼が重い肉体労働を課させられた。さらに、中国共産党は僧侶や尼に結婚させようとした。これは佛教信仰を完全に破壊した。例えば、1951年3月8日の婦人節の前、湖南省長沙市の婦人連合会は、全省の尼僧は決められた数日間の内に結婚するよう命令した。そして、若い僧侶は軍に入れられて、戦場まで送られたのである。[52]

     中国の各種の宗教団体は、中国共産党の暴力の弾圧によって完全に崩壊した。佛教界、道教界の真の修煉者は弾圧され、残りの人たちは還俗した。また、袈裟[53]、道士や牧師の服装を着ている偽者がたくさんおり、彼らは隠れた共産党員であり、佛教経典、道蔵、聖書を歪め、これらの経典の中に中国共産党が運動を行う理屈を探し出していた。

(三)文物を破壊する

     文化遺産への破壊も中国共産党が伝統文化を破壊する重要な一部分である。「破四旧」において、多くの学識者が保存していた古本書や書画が燃やされたり、紙くずのように破られたりしていた。章伯鈞の家には一万冊の書物を収蔵していた。しかし、これらの書物は紅衛兵たちによって彼らの体を温めるために燃やされ、また一部の書物は造紙工場に送られて、紙糊となった。「字画の『神医』と呼ばれる高度の技術を持ってすばらしい書画を修復できる洪秋声さんは、宋徽宗[54]の山水画、蘇東坂[55]の竹、文徴明[56]と唐伯虎[57]の画などを修復していた。何十年もの間、彼が修復した古代の字画は数百件もあった。これらは全部国家一級収蔵品である。彼が大変な努力をして収蔵できた有名な書画は、『四旧』と勝手に決め付けられて、火をつけられて燃やされた。その後、洪さんは涙を流して『百斤の書画が、長い間燃えていた』と言った。[58]

     「人事有代謝、往来成古今、江山留勝跡、我輩復登臨……(人事代謝有り、往来古今成る、江山勝跡を留め、我輩復た登臨す・・・)」[59]

     もし現代の中国人が歴史のことを少し思い出せば、孟浩然のこの詩をうたう時、違った味わいを感じるだろう。

    「江山勝跡」は「破四旧」の時に壊され、しかも消えてしまったのだ。王羲之[60]が書き残し、千年も伝わってきた『蘭亭集序』[61]中の蘭亭は破壊されて、さらに王羲之の墓まで壊されたのだ。呉承恩[62](『西遊記』の著者)の生家も壊され、呉敬梓[63]の安徽故居も破壊された。蘇東坡が石碑に『酔翁亭記』[64]を書いたが、その石碑は紅衛兵らに倒されて、石碑上の字もナイフで削られた。

    これらの中華文化の精華は数千年を通して積み重ねられてきたものである。一旦壊されると永遠に復旧できないだろう。しかし、中国共産党はその「革命」という口実で簡単にすべてを破壊した。私たちは以前、八国連合軍が「万園の園」である圓明園や、その中の巨著とも呼ばれた『永楽大典』[65]などを完全に燃された事実を聞いて嘆くが、中国共産党の破壊は侵略者たちの破壊と比べてより広く、より長く、より徹底的に行われていた事事を夢にも思っていなかった。

(四)精神面での破壊

   中国共産党は物質面で宗教や文化を滅亡させようとした以外に、精神面でも信仰や文化への認識をできれば取り除こうとしていた。

   例えば、中国共産党が回民族(イスラム民族)の習慣が「四旧」に属すると言い、強制的に回民族の人々に豚肉を食べさせようとした。しかも、回民の農家やモスクの管理者に豚を飼わせ、各家庭は毎年ニ頭の豚を政府に渡すようにと命令した。しかも、紅衛兵らはチベット仏教のパンチェン・ラマに人の糞便を食べさせた。さらに、ハルビンの最大の近代寺院である極楽寺の三名の僧侶に「何が佛教経典だ。全部でっちあげだ!」と書いた看板を持たせた。

   1971年、林彪が逃げ出し、彼の乗っていた飛行機がオンドルカンで落ちた後、毛家湾で探し出した孔子語録は再び、全国的に孔子を批判する運動を起こした。「梁効」[66]が雑誌「紅旗」で発表された「孔丘という人」の中で、孔子を「虚偽でずるい政治詐欺師だ」と形容し、その後孔子を批判する漫画そして歌まで出てきた。

   宗教と文化の荘厳と神聖は少しも残されず消されたのである。

(五)一人ひとりに及ぶ破壊

   中国古代において、地方に対する中央の管理は県レベルまでで、それ以下はすべての管理をそこの宗族に任せていた。だから、始皇帝[67]の焚書坑儒や、三武一宗の滅仏は上から下までの運動で、徹底的なものではなかった。その時、仏、儒の書物や思想は世の中に広く生存できる空間もあったからである。しかし、思春期の学生が中国共産党の煽動を従い行った「破四旧」は「自発情熱」からの草の根運動だった。当時社会を厳しくコントロールするために、「それぞれの村に党の支部」が設置された。この「革命」を全国の隅々まで広め、一人一人に衝撃を与えた。

    同時に、共産党のように、人々の心から最も神聖なもの、最も美しいものを取り除くために、暴力以外に歴史上でっちあげや人をひどく罵った皇帝は誰もいなかった。イデオロギー上の消滅は、単純に物質を消滅することよりさらに効果的で、より長く続けられるのである。

(六)学識者たちの改造

    中国の漢字は五千年の文明の精華を集めたものである。字の形、字の発音や字で組み合わせられた熟語、物語は私たち民族の深い文化の内質を表している。中国共産党は漢字を簡体化させた他に、ピンイン化を進めようとして、言語文字の中から文化にあるすべての伝統を取り除こうとしていた。その後、この計画は全く実現されず、取りやめられた。しかし、伝統文化を受け継いだ学識者たちはそれほど幸運ではなかった。

   1949年までに、中国にはおよそ200万人の学識者がいた。彼らの中に、西洋に留学した経験を持つ人がいるが、ほとんどの人はやはり儒家思想を受け継いだ。中国共産党は彼らを許さなかった。彼らは「士大夫」と呼ばれる階級の人で、彼らの思想は世の中の人々に大きな影響力を持っていた。

    そのため、1951年9月、中国共産党は北京大学から一つの熱烈な学識者への「思想改造運動」を始めた。また、その基礎の上に、学識者に対して「まじめに以前の運動経歴を報告し、その中の反革命者を粛清しよう」と要求した。[68]

   毛沢東は学識者を一番嫌っていた。彼は「彼たちは一つの真理を知らなければならない。それは、いわゆる学識者は実に一番無知な人であることだ。労働者と農民の人々が持っている知識はときに彼らより多いのだ。」[69]と、また「まだ改造されていない学識者を労働者や農民と比べ、学識者たちは精神だけではなく、その体もとても汚いのだ。手は黒くて、脚に牛の糞がついているかもしれないが、最もきれいなのはやはり労働者と農民だ」と話したことがある。[70]

   中国共産党の知識人に対する迫害は、様々な形式の大批判会から始めた。1951年「行乞辨学(武訓は乞食をして集めたお金で学問所を開設した)」を主張する武訓[71]を批判していたのをはじめ、1955年毛沢東が自ら胡風を反革命として定めるまでは、学識者たちはまだ大規模に弾圧を受けていなかった。しかし、1957年にいくつかの伝統的な宗教への破壊がほぼ終わったころから、中国共産党はすぐに学識者に対する迫害を始めた。これが有名な「反右闘争」である。

      1957年2月末、中国共産党は「百花齋放、百家争鳴」と言うスローガンを出して、学識者に対し政府に意見を出すようすすめた。しかも、提案する人は「言者無罪」と言った。学識者たちは、中国共産党の起こした鎮反や粛反などの運動、そして政府が自分たちが全く分らないのに、科学、哲学、文化芸術などの領域にむりやり命令を下したり、正しくない政策を建てたりしたことに対する不満を持っていたため、政府の「意見を言いなさい」という言葉を聞き、政府はこれから真剣に自分たちの話に耳を傾けてくれると信じ、以前自分達が言えなかったことをすべて話し出した。

    歴史が過ぎた今、毛沢東が反右闘争を起こしたのは、学識者の言い過ぎた意見に腹をたて、反撃するようになったと思う人がたくさんいるが、事実はそうではない。

    毛が1957年5月15日に書き、党内の高いレベルにいる官員たちが読み回った『物事は変化している』という一文の中に、「最近この一時期、右派はかなり気ままに行動している。彼らは中国で7度以上の台風のような激しい運動を起こし、共産党を滅亡させようとしている。」と話した。[72]それから、「大鳴大放」に興味がなかった各レベルの党の幹部はすぐ熱心に学識者たちの意見に耳を傾けるようになった。章伯鈞の娘が書いた『往事は煙のようなものではない』という回想録の中で、中国共産党統戦部部長の李維漢は自ら章伯鈞に電話をかけて、整風交流会に参加するよう招いた。章伯鈞が来てから、李維漢は章を一番前にあるソファーに座らせた。章はこれが陰謀だと分らず、自分の意見をたくさん話した。「李維漢は父の話にうれしそうな様子だった。父は微笑む李を見て、たぶん自分の意見に李も共感しているからだと思っていた。しかし、父が知らなかったのは、李は父に負わせる口実を見つけたから、微笑んでいたのだ。」と記述した。章伯鈞はその後中国のナンバーワンの右派とされた。

  この年、文書や講演で発表された批判や提案を見てみよう:章伯鈞の『政治設計院』、5月21日提出した;龍雲の『反蘇謬論』、5月22日提出;羅隆基の『平反委員会』、5月22日提出;5月30日林希 は北京大学で講演会を行った、題名は「中国共産党の封建社会主義を批判する」;呉祖光の『できれば党はあまり早く芸術界を指導しないように』、5月31日提出;儲安平之『党天下』、6月1日提出。これらの文章はすべて毛が自分の文章を書き、根回しした後、発表された。つまり、意見を表明したものはすべてわなにはめられたのだ。

   彼らは直ちに「右派」とされた。このような「右派」は全国で55万人にも上った。

   中国伝統文化には、「士は殺してもいいが、決して恥ずかしめてはいけない」という精神がある。しかし、中国共産党は学識者に対して恥ずかしめるだけではなく、その恥を受けなければ、食べ物すら与えない。さらに、その人たちの子供も親たちと一緒に恥ずかしめられた。そのため、多くの学識者は屈服し妥協した。また、自分を守るために、他人を暴露するようになった。実に、これらのことは人々の心をひどく傷つけた。一方、迫害をされても妥協しなかった学識者たちは本当に殺されたのだ。

   このように、伝統社会の道徳の模範でもあった「士」階層は消えてしまった。

    毛沢東は「始皇帝もたいしたことはない、彼はただ460人の儒生を生きたまま埋めただけだ。しかし、私たちは46000人の儒生を生きたまま埋めたのだ。私たちの鎮反(反動分子弾圧)は、反革命の学識者を殺した。私は民主主義を訴える人と論じたことがある。彼らは私たちを始皇帝だと罵っている。それは違う!私たちは百倍も始皇帝を超えている」と言った。[73]

     実は、彼は、儒生を殺しただけではなく、最もひどいのは、毛は彼らの信仰と心を殺したのだ。

(七)根本からすり替えられた表面文化

   中国共産党が改革開放を実施してから、多くの寺院、道観、教会を建て直した。国内で祭りを行い、海外で文化祭を行った。これは実に、中国共産党の伝統文化に対する最後の破壊と利用である。中国共産党は、人々の中にある「善良」を切り取ることができない。これは共産党の党文化を破産させられるのである。また、共産党は伝統文化を利用して、その「偽、悪、闘」という邪悪な本性を隠そうとしていた。

    文化の根本はその道徳的内質であり、単に娯楽ではない。共産党は文化の表面にある娯楽の働きを回復させて、道徳が破壊された後の実質を隠そうとした。共産党はいくら書画、骨董の展示会を開いても、獅子舞のある文化祭や特産物フェアーを開催しても、あるいは、すばらしい古典建築を建てても、これはただ単に表面文化を回復させただけで、伝統文化の精華ではない。同時に、これらのイベントを通じて、海外に共産党の文化への認可を強めようとしただけである。実に、かれらにとって、その権力と中国における統治を維持することが一番大事なのである。

    例えば、寺院はそもそも静寂で出家の人が仏を拝み、修錬する場所であり、あるいは、世の人々が懺悔するところでもある。修行するには、静けさと無為を重んじる。懺悔するにも、荘厳な環境が必要である。しかし今、経済の発展につれて、寺は旅行名所となった。今寺院に足を運ぶ人の中で、精進潔斎してから、仏を敬う心を持って、自分の過ちを反省するために来た人は何人いるだろうか?

   表面文化を回復し、その本質を破壊する。これは正に、共産党が人々を騙す戦略である。佛教や他の宗教や文化はすべて共産党によって滅亡させられた。

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