【第二評】中国共産党はどのようになり上がったのか

序文

    「説文解字」によると、「党」という字は、即ち「尚(なお)黒(くろ)」の二文字からなる。「党」、「党人」など、中国語の.中では貶す意味がある。孔子曰く「君子は矜(きょう)にして争わず、群して、党せず」。「論語」の注解によると、党とはお互いの悪と不正を隠し合うものである。中国の歴史の中にある小さな政治集団は、「朋党」とよく呼ばれるが、中国伝統文化の中では、良くない概念であり、徒党を組んだ悪い仲間という意味である。「党を結び」というと、「私利を営む」ことが連想される。

    では、近代の中国で、「共産党」が現れ、勢いに乗り政権を奪い取れたのは何故だろう。中国共産党が人々に植え付けてきたものは、「歴史が中国共産党を選択し、人民が共産党を選択した、共産党がなければ新中国も無い」というものである。

中国の国民が自ら共産党を選択したのか、或いは、共産党が党を結び、私利を営み、国民に強制し、押し付けたのか、歴史の中で答えを探すしかない。

    清朝の終わりから中華民国の初期まで、中国というこの古い国が、外来の衝撃と内部の変革を経験し社会は混乱と苦痛の中にあった。その間、多くの知識人と仁愛ある正義の人々は国を救い世を救おうという思いで胸が一杯であったが、国難と混乱の中にあって彼らの憂患の意識は失望から完全に絶望へと変わっていった。国の病を治すためには手段を択ばず、中国以外のところで万能薬を探し、イギリス式が駄目ならフランス式、フランス式が駄目ならロシア式と、劇薬の使用さえ惜しまず、出来れば一日で中国を奮い立たせたかった。

    「五.四運動」はその絶望感の産物である。ある人は無政府主義を主張し、ある人は孔子の学説をなくすべきと唱え、ある人は西洋文化を導入すべきと主張した。つまり、中国の伝統文化に否定的な態度を取り、中庸の道を捨て、焦って近道を選び、すべてを破壊すべきであると主張した。中でも過激派は国恩に報えないことに無念を感じる一方、自分の理想と意志を信じて疑わず、現実の世界がもう救いようがなく、自分だけが歴史発展の鍵を見つけたと考え、革命と暴力に情熱を注いでいった。

    様々な境遇により、人々はそれぞれの理論や学説、道にたどり着く。やがて、ある人たちはソ連共産党の代表者と出会った。暴力革命による政権の奪取というマルクス・レーニン主義が、彼らの焦る気持ちと共鳴し、国と国民を救おうという彼らの願望に符合した。このようにして、全く異質な、この異国思想は彼らによって古い中国に注入された。

    中国共産党第一次代表大会に参加したのは十三人だったが、その後、ある者は死亡し、ある者は逃亡し、或いは日本に組し、または国民党に転向し、1949年共産党が政権を握った時には毛沢東と董必武(とうひつぶ)の二人しか残らなかった。これらの共産党設立者達が、ロシアから招いた“神霊(しんれい)”は悪霊であり、そして国を奮い立たせた薬は、猛烈な毒薬だった事を二人は知っていたのだろうか。

    当時、ソビエトロシア共産党(ボルシェビキ)は政権を取ったばかりだが、中国に対してすでに野心を抱いていた。1920年、ロシアは、シベリアに第三コミンテルン極東書記局を設立、中国などの共産党設立を担当し、管理していた。主管はSumiltsky(スミルツキー)、副主管はVoitinsky(ボイチンスキー)であり、陳独秀(ちんどくしゅう)らと一緒に、中国共産党の設立準備を開始した。1921年6月彼らが第三コミンテルン極東書記局に提出した中国支部の設立計画書は、中国共産党が第三コミンテルンの一支部である事を明記した。1921年7月23日、Nikolsky(ニコルスキー) と Maring(マーリン)の監督の下、中国共産党が正式に成立した。

   その日から、共産主義運動は中国に試験的に導入され、党の生命がすべてを超越し、すべてを征服し、中国に限りない災難をもたらした。

一 中国共産党の形成は中国内外の悪の総集過程である

    五千年の文明史を誇る中国に、外部から共産党と言う異質のものを植えつける事は、容易ではなかった。中国共産党は共産主義思想を用いて民衆と国を愛する知識人を欺瞞、その上レーニンが捻じ曲げた共産主義理論をさらに捻じ曲げ、それを根拠として共産党の統治にとって好ましくない全ての伝統と価値観を破壊し、党にとって不穏な動きをする、すべての社会階層と人々を消滅させた。中国共産党は、工業革命を持ち込んで信仰を破壊し、共産主義を持ち込んで更に無神論を徹底した。また共産主義の私有制に対する否定、レーニンの暴力革命の理論も加えた。それと同時に、中国王朝制度の最も悪い部分を継承し、発展させた。

    中共の形成は中国内外の悪を少しずつ集合していった過程であり、その中で“中国独自”という九大遺伝子「邪悪、欺瞞、煽動、闘争、略奪、無頼、間諜、殲滅、制御」を完成した。この九大遺伝子は今も受け継がれ、更に力を増している。

(一) 遺伝子その一:邪悪——マルクス、レーニン主義を装う

    当初マルクス主義が中国共産党員たちを魅了したのは「暴力革命による国家体制の粉砕と無産階級の政権成立」であり、これはマルクス・レーニン主義の根本的な邪悪のゆえんである。

    マルクスの唯物論は生産力、生産関係、および剰余価値の狭い経済概念で叙述されたものであり、まだ発達していなかった資本主義社会の早期で局部的、近視眼的な予言で資本主義の滅亡と無産階級の勝利を述べたが、既に歴史と現実がそれを否定している。マルクス・レーニン主義の無産階級の暴力革命と無産階級の専制は、強権政治と無産階級の主宰を主張している。「共産党宣言」は各階級の対立と階級闘争を持って、共産党の歴史観と哲学観を述べた。無産階級が、すでにある伝統的道徳と社会関係を打破することにより政権を奪取することを目的とした。始めから共産主義は一切の伝統と対立する立場を取った。

    人間の天性は暴力を普遍的に排除するものであり、暴力の中で人間は更に暴力的になり、共産党の暴力学説は根本的に人類の天性によって否定されるものである。これまでにある思想、哲学、伝統のなかに見当たらないものであり、突然、近代に現れた恐怖の体系である。

    これらの悪しき観念の前置きは“人間は必ず天に勝つ”、”人為的に世の中を改造する“というものである。共産党は“全人類の解放”、“大同の世”という理想によって、多くの人々を引き付け、社会に対する危機感と使命感を持つ人はたやすく共産党に騙された。そして、彼らは天道を忘れ、“人類のパラダイス”を作ろうという虚言の中で、功績を作り上げながら、伝統を蔑視し、人命を軽視し、更に自分の生命も価値のないものにしてしまった。

    人造の“共産主義世界”を真理と信じ、“満ち溢れる熱き血潮はすでに沸騰し、真理のために捧げよう”[1]、共産党はこの絶対的、荒誕な理念を用い、人と天のつながりや、祖先とのつながり、さらに民族伝統の血脈も断ち、共産主義に身を捧げようと人々に呼びかけ、それによって共産党の虐殺エネルギーを増幅させた。

(二) 遺伝子その二:欺瞞—邪悪が神になりすますためには、
            欺瞞あるのみ

    邪悪の常套手段は欺瞞である。共産党は労働者階級を利用した時、彼らは“最も進歩した階級”で、“公平無私”、“指導的な階級”、“無産階級革命の先陣”などと称した。また、農民階級を利用した時は、“貧民がなければ革命も無い。彼らを攻撃する事は革命を攻撃すること”[2]と賞賛し、“耕す者に畑を与える”と約束した。一方、共産党は資産階級の力を借りる時、“無産階級革命の同路人”と称し、“民主共和”を約束した。さらに、共産党は国民党に消滅させられそうになった時、“中国人は中国人と戦わない”と叫んだ。しかし対日戦争が終わると、内戦をぼっ発し、国民党の政権を倒し、また建国後すぐに資産階級を消滅させ、最後に、労働階級も農民階級も、全く何も持たない無産階級に変えた。

    統一戦線は共産党の典型的な欺瞞である。内戦で勝つために、共産党は地主と富農の全家族を抹殺する方針を変え、地主と富農のような階級の敵に対しては、“臨時的統一戦線政策”を取った。1947年7月20日、毛沢東は“少数反乱分子を除き、すべての地主階級に対し緩和的措置を取り、敵対分子を減少させるべきである。”と指示したが、共産党は政権を手に入れた後に、地主と富農階級は抹殺される運命から逃れなかった。

    言行不一致。共産党は民主派を利用した時に「長期共存、互いに監視し合い、密接な関係を築き、苦楽を共にする」と唱えたが、いかなる反対意見も、また、異なる思想、言動、組織もすべて抹消した。マルクス、レーニンと中共の指導者は皆、ほかと政権共有できないと明言した。共産主義は始めから独裁政治の特徴を持っている。その専制排他性は、政権奪取の時であれ、政権を握っている時であれ、共産党はいかなる他の政党とも誠意を持って付き合う事がなかった。いわゆる“融和”の時期でも、せいぜい外交辞令のレベルにすぎなかった。

    歴史的教訓として、共産党の承諾は信じてはならない、いかなる保証も実現しない。共産党を信じたら、命の保証はないのだ。

(三) 遺伝子その三:煽動——恨みを作り上げ、闘争させる

    騙すのは煽動するためである。闘争するには恨みが必要である。恨みが無いのなら作ればいい。中国の農村には、根を深く下ろした土地の宗族制度があった。共産党政権の樹立の根本的な障碍であった。農村社会は元々調和していた。土地の所有と借用は絶対的な対立関係ではなかった。土地の所有者は土地を管理し、農民に貸し出した。農民は土地を耕し、所有者に地租を払っていた。地主と農民は相互に支えあった。しかし、この相互依存関係を階級対立関係に、調和を敵対に、合理を不合理に、さらに秩序を混乱に、共和を独裁に変えたのは共産党である。共産党は剥奪を主張し、財産を奪うため、殺人を行う。地主や富農本人だけでなく、その家族まで殺した。農民の多くは、他人の財産を奪うことに消極的で、昼間奪ったものは、夜中に返したほどだ。この事は共産党の工作員に知られ、階級闘争への理解と認識がないと罵られた。中国で有名な“白毛女(びゃくもうじょ)[3]”は元々巫女だった。地主に迫害された事は無かったが、共産党は彼女を取り上げ、ストーリーを作り直し、地主に迫害された典型として、京劇や舞台劇、バレエなど舞台で取り上げ、国民に大いに宣伝し、恨みを煽る材料とした。

    恨みを煽って、他の人間を殺させるやり方は共産党の典型的な手段であり、それはいわゆる「95%対5%」の階級区別公式である。共産党は後の一連の運動でそれを十分に利用し、発展させた。95%の枠に入れば安全だが、5%の枠に落ちたら、敵として攻撃される。大多数の人はその恐怖から、自分を守るため、必死に95%に入ろうとし、他人を陥れてもかまわなかった。

(四) 遺伝子その四:無頼——ルンペンプロレタリアート[4]が
            中共の階級基礎を形成

    無頼は、邪悪の基礎を成す。共産革命はルンペン暴動とも言う。有名なフランス革命の「パリコミューン」はパリにいるごろつき達が財物を奪い始め、次第に放火殺人に発展したものである。マルクスもこのような無産階級を見下している。彼は『共産主義宣言』の中で“ルンペンプロレタリアートは古い社会の腐敗した部分であり、無産階級革命の中に巻き混まれるが、彼らの生活状況により、簡単に買収され、革命に対立して働くだろう”と明言してある。農民の散漫と未開は天性であり、一つの階級にもなれないとマルクスとエンゲルスは評した。

    中共は悪の面からマルクスの学説を発展させた。「ルンペンは社会に見捨てられた部分だが、実際に農村革命においては、最も勇敢で、最も徹底しており、最も信念の固い部分でもある」と毛沢東は賞賛した。ルンペンプロレタリアートは中国共産党の凶暴性を増幅し、早期の農村ボルシェビキ政権を設立した。“革命”と言う言葉に共産党は良いイメージを作り上げたが、実はこの“革命”は善良の人々に恐怖と災難しかもたらさず、“命”を奪うものである。文革時期、ルンペンと言う言葉が、聞こえが良くないと思った共産党は、この言葉を“無産者”に改めた。

    ごろつきのもう一つの面は厚かましいこと。独裁と言われた時、横暴な態度に出て、“敬愛するみなさん、あなた達の言い方が正しい、まさにそのとおりだ。中国人民がこの何十年で積み上げたすべての経験からして、人民民主主義専制あるいは人民民主独裁の実行が必要なのだ”と言った。

(五) 遺伝子その五:間諜(スパイ行為)——潜入、離間、
             瓦解、乗っ取り

     欺瞞、煽動、無頼の次は間諜である。共産党のスパイ潜入術は並ではなかった。スパイ工作の“前三傑”と呼ばれた者たちがいた。彼らは銭壮飛(せんそうひ)、李克農(りこくのう)、胡北風(こほくふう)である。銭壮飛は国民党中央調査科主任・徐恩曾(じょおんそ)の腹心で機密管理秘書であったが、実は銭壮飛が所属していたのは中国共産党中央特務二課の課長・陳Gen(ちんくん)の下であった。中華民国政府軍が中共に行った第一次と第二次の包囲殲滅作戦の情報は、この銭壮飛が国民党中央組織部の郵便物を使い、李克農によって周恩来[5]の手元に送られた、その働きによって、共産党は生き延びたのである。一九三〇年四月、東北(満州)で国民党中央調査科の証書と資金を用いて、表では国民党、裏では共産党に属するという二重のスパイ組織を作った。李克農も中華民国陸海空軍総司令部に紛れ込んで暗号解読員になり、中国共産党機密管理局責任者顧順章(こじゅんしょう)[6]が捕まえられ、その後の変節した情報も彼が解読し、銭壮飛が周恩来に届け、それによって中国共産党は一網打尽にされる危機を避けられたのである。

    中国共産党に親しかった楊登羸(ようとうれい)は国民党中央調査科の上海駐在員だった。共産党は彼と手を組み、信用できないと思われる共産党員の粛清に利用した。河南省のある年輩の幹部がかつて、中共幹部の機嫌を損ねたため、仲間に陥れられ、国民党の監獄に数年間も閉じ込められた。

     解放戦争[7]である内戦で、共産党の情報戦線は蒋介石[8]の近辺に直接届いた。国防部の作戦次長、国民党軍隊を派遣できる地位にいた劉斐(りゅうひ)中将はなんと共産党員であった。派遣された軍隊よりも早く、当時の中共本部があった延安は既に情報を得て、さらに作戦計画を練った。胡宗南(こそうなん)[9]の秘書と腹心の随行員の熊向暉(ゆうこうき)は、胡宗南の大軍による延安進攻計画を周恩来に通報したため、胡の軍隊が延安に入ったときは、城はもぬけの殻だった。かつて周恩来はこう話した、「蒋介石の作戦命令は軍の司令官に届く前に、毛主席はすでに読み終えていた」。

(六) 遺伝子その六:略奪——欺瞞て、略奪することで、
           新しい秩序を形成

     中共のものはすべて、略奪してきたものである。紅軍を作り武装させ割拠させるためには、兵器弾薬、糧食、軍服に金が掛かる。共産党の資金調達法は地方にいる金持ちから金を奪い取る事であり、強盗とかわらない。李先念[10]の紅軍は湖北省の西地区一帯で活動していた。彼らは現地の金持ちの各家庭から一人ずつ拉致し、殺さずに人質とした。目的はその家族らに、紅軍に金を送り続けさせることである。紅軍が満足するか、家財全てがなくなるかまで、ずっと人質を帰さなかった。酷い脅しや苛めで、命を無くした人もいた。

     “打土豪、分田地(土豪を打ち、田地を分かつ)”の意味は地主を倒し、その土地を分けることである。共産党はこのスローガンを挙げ、欺瞞て略奪することを全社会に広め、伝統に代わり新しい秩序とした。共産党は悪の限りを尽くしたが、徳を積まなかった。一部の人間に恩恵を与えるのも闘争のためだった。やがて、「善を積む、徳を重んじる」ことが消え、人々は殺し合いを覚えた。共産党が唱えた「大同の世」は実際、暴力強奪を認めるものとなった。

(七) 遺伝子その七:闘争——伝統的
            家父長制と国家制度を打ち砕く

     欺瞞、煽動、無頼、間諜はすべて闘争、略奪のためだ。共産党の哲学は闘争哲学だ。共産革命の殴打、破壊、略奪は決して無組織なものではない。党は曰く“農民が攻撃する主要目標は土豪と不法地主、その他は宗法制度と思想、都会の汚職官僚及び農村の劣悪習慣全部であり”、郷村の伝統制度を破壊することをはっきり示した。毛沢東はこう言ったことがある、“革命は宴会ではない、文章の創作でもない、絵画や刺繍でもない、そんなに優雅で、落ち着き払って、礼儀正しく、優しく、善良で、恭しく、素朴で、謙遜であってはならない。革命は暴動であり、一つの階級がもう一つの階級を押し倒す強烈な行動である”。政権をとる時は「闘争」が必要であり、その後の文化大革命でも、共産党はこの「闘争」の特徴を次世代の教育に注入した。

(八) 遺伝子その八:殲滅——完全なる集団絶滅理論を創成

    共産党のやった多くのことは余地を残さないことばかりだ。インテリ層の人々に人間のパラダイスを約束したが、その後彼らを“右派”にして闘争をしかけ、“臭老九(しゅうろうきゅう)[11]”という最下層の階級に改造し罵倒した。地主や資本家の財産に対する略奪、地主富農階級の消滅、農村秩序の壊滅、地方政権の強奪、金持ちの拉致、捕虜の洗脳、工商資産階級の改造、国民党に対する浸透と潰し、コミンテルンからの分裂と裏切り、建国後の数々の政治運動等、すべてそうである。この全ては集団絶滅理論に基いている。これらの政治運動はすべて恐怖主義の集団絶滅運動である。共産党はそのスタートから絶えず完全な集団絶滅の理論体系を作り続けてきた。その階級論、革命論、闘争論、専制論、運動論、政党論等、すべては集団絶滅の実践から得た経験則の総集である。

     共産党の集団絶滅理論における最大の特色は、人間性の思想と良知の根絶である。これはその恐怖統治の手段、利益に従ったものである。共産党を支持しないと滅ぼされるし、たとえ支持しても滅ぼされる可能性がある。滅びるか否かは共産党の都合で判断される。その結果、国民一人一人が常に危機感を感じ、共産党を恐れる。

(九) 遺伝子その九:制御——「党性」を用いて全党を制御し、
             国民や社会全体を支配する

     これまで論述した遺伝子はすべて、一つの目的のために存在する。テロリズムによる高圧的制御である。共産党はその邪悪な本性ゆえに、すべての社会勢力にとって天敵となった。共産党は、その成立時より、次から次へと迫る危機の中でもがき続けた。その最大のものは、生存の危機であり、まさに存在することが恐怖であり、永遠の危機感に付きまとわれている。危機の中、党の集団的な存在と権力の維持という共産党の最高利益をもっぱら求めた。共産党はしばしば更なる邪悪な方策に訴えることで、その力の不足を補わざるをえなかった。党の利益は個人党員の利益ではなく、また個人党員の利益の総和でもない。それは共産党集団の利益であり、個人の意向よりも優先される。

    「党性」はこの邪悪な霊の最も強烈な本質である。「党性」は無限の拡張力を持ち、人間性を呑み込み、人間を強制的に非人間に改造していく能力を持っている。周恩来は孫丙文(そんへいぶん)と同志の仲間で、孫丙文が亡くなった後、彼の娘である孫維世(そんいせい)は周恩来の義理の娘になった。文革時、孫維世は逮捕され、攻撃された。彼女の死後、家族は彼女の頭の中に長い釘を見つけた。それは打ち込まれたものである。孫維世の逮捕命令書に周恩来の同意サインがあった。

    中国共産党草創の指導者の一人である任弼時(にんひつじ)は、抗日戦争時、アヘンの生産と管理をしていた。アヘンは列強の中国侵略の象徴であり、反民族主義という不義を敢えて無視して大量にアヘンを生産するには、確かに「党性」がないとできないことである。公にできないことなので、中共はアヘンを「石鹸」と称して、周辺諸国に違法輸出し、財源とした。任弼時の生誕百周年の時、中国共産党の新指導者は“任弼時は品徳高く、模範的共産党員であり、彼は信念が固く、党の事業に忠誠を尽くしていた”と高くその「党性」を評価した。

   もう一人の「党性」の模範人物は張思徳(ちょうしとく)である。党は彼が煉瓦作りで窯が崩落して亡くなったと言っているが、アヘンを焙じている時の事故によるものだと言われている。張思徳は中央警備団で一兵士として黙々と勤めを果たし、昇進を求めなかった事で、彼の死は“泰山より重い” [12]と党に褒め称えられた。彼の後“革命機械のなかの錆びないネジ”と賞賛された雷峰も「党性」の模範人物であった。彼らは長い間、全国民への教育に使われ、彼らのように党に忠誠を尽くすよう要求された。共産党の英雄模範はすべて党の鋼鉄のような硬い意志と党性原則の範例とされた。

    政権を手に入れた後、共産党思想は制御作用でいっそう光彩を放った。党は何代にも渡ってこのような「工具とネジ」を見事に作り上げた。「党性」は一貫した思惟パターンと行動パターンとして強化され、全国に普及した。「党性」は一つの定式として、国家と言う皮をつけ、全国民を自己洗脳し、邪悪に服従と協力をさせる仕組みを作り上げた。

二 中国共産党の不名誉な歴史

    中国共産党は、自らの歴史を“勝利から勝利へ”という、輝かしいものだと言う。これは共産党政権に合法性を賦与するためである。しかし、中国共産党の歴史は不名誉なものだった。中国共産党は「邪悪、欺瞞、煽動、闘争、略奪、無頼、間諜、殲滅、制御」の九大特徴を発揮し、政権を手に入れたのである。

(一)中共の成立——ロシア共産党の“乳”を飲み、成長した

    中共は国民に「十月の砲声は中国にマルクス、レーニン主義を送ってきた」といい続けているが、実際、中共成立当初はソビエトのアジア中国支部で、始めから国を売る政党だった。

    成立当初、中共は金も、理論も、実践経験もなく、更に定見もなかった。コミンテルンへの加入は暴力革命への参与と依存である。中国の暴力革命とマルクス・レーニン時期の暴力革命とは同じ流れのものである。コミンテルンは世界各国政府の政権を転覆させる総指揮部であり、当時中共はコミンテルンの東方支部で、ソビエトの共産帝国主義の東方路線の執行をした。中共はソビエトの成熟した暴力革命と、無産階級専制の経験に頼り、政治、思想、組織構成全てをソビエトに従った。ソビエトの地下秘密組織の生存方法を模倣し、厳密な監視管制を実施した。ソビエト共産党は中共の背骨であり、後ろ盾であった。

    中国共産党第一回代表大会で採択された中国共産党の党規約は、コミンテルンが制定したものである。これの拠所はマルクス・レーニン主義、階級闘争、無産階級専制、そしてソビエトの建党綱要である。中国共産党の魂はソビエト式の外来品である。中共の指導者陳独秀はコミンテルン代表マーリンと意見の違いがあったが、マーリンは陳に手紙を送り、共産党員であるなら、コミンテルンの命令に従うべきだと命じた。陳独秀は中国共産党第一任の指導者だが、この命令に従い、ポリシェビキに屈服せざるを得なかった。

    陳独秀は1923年の中国共産党第三回代表大会で、党の財源はほぼ全部、コミンテルンからのものだと認めた。コミンテルンは中国で年間20万元あまりを費やしたが、中共は成績が悪く、コミンテルンの叱責を受けた。

   中国共産党の機密解除された文書の統計によると、1921年10月から1922年6月までの収入は16655元で、1924年は1500ドルと32927.17元、1927年は187674元である。毎月コミンテルンからの経費は2万元前後だったが、中国共産党は当初から、今のような人脈作り、裏口の買収、脅しなどの方法をすでに使用していた。コミンテルンの主管は、中国共産党中央のやり方を厳しく批判した。 「彼らは、様々な資金源(国際連絡局やコミンテルン、軍事組織の代表など)を利用して、それらの基金を得ていた。というのも、ある組織は、別の組織が既に基金を分散したのを知らなかったからだ。面白いのは、彼らが我々ソビエトの同志らの心理を理解しているだけではないということだ。 重要なことは、彼らは、それぞれの基金を担当している同志をそれぞれどうやって個別に扱ったらいいのかを知っているということだ。 彼らは、正常な手段でそれを手に入れることができないと知ると、事務的な打ち合わせを遅らせる。最終的には、例えば、民衆寄りの役人がソビエトと対立しているとか、お金が中国共産党ではなく、軍閥に渡っているという噂を流すなどして、ゆすりという最も下卑た手段を採っているのだ」。[13]

(二)第一次国共合作——その中核に取り付き、北伐[14]を破壊

   中共は、蒋介石が国民革命[15]を裏切り、共産党は仕方なく武装暴動を起したと、これまでずっと国民に説いてきた。しかし、中国共産党の第一次国共合作は、国民革命に便乗して自分の勢力を発展させるためだった。しかも、政権を手に入れることばかり考えていたので、性急にボルシェビキ革命を行い、事実上は国民革命運動に背信していたのである。

    1922年7月、中国共産党第二回代表大会で、政権を手に入れようと焦っていたため、国民党との連合を反対する人が多かった。しかし、背後にいたコミンテルンはこの決定を覆し、国民党との連合に加入する指令を出した。

    第一次国共合作期間、1925年1月、中国共産党は上海で中国共産党第四回全国代表大会を開き、中国の指導権問題を取り上げた。共産党は孫中山(そんちゅうざん)[16]が存命中から、この問題を提起しており、孫中山が生きていたならば、中国共産党の狙いは蒋介石ではなく、孫であったろう。

     ソ連の力を借り、国共合作期間、共産党は国民党の中で大いに権力を握った。譚平山(たんへいざん)は国民党中央組織部部長になり、馮菊坂(ひょうきくばん)は工人部長の秘書になり、全権を持って事務処理を進め、林祖涵(りんそかん)は農民部長で、澎湃(ほうはい)は農民部の秘書で、毛沢東は国民党の宣伝部部長代理であった。軍と軍事学校の指導権はいつも共産党の関心の焦点で、周恩来は黄埔(こうほ)軍事学校の政治部主任を務め、張申府(ちょうしんふ)は副主任になった、周恩来は当時の軍法処の処長も兼任して、あらゆるところにソ連の軍事顧問を入れた。多くの共産党員は国民党軍事学校政治教官や教務職員になり、国民軍[17]の各階級の党代表にもなり、党代表の署名がなければ一切の命令が無効と決めた。このように国民革命運動の中枢に巣食うことで、1925年に千人未満だった共産党員は、1928年では3万人にもなった。

    北伐革命は1926年2月に始まったが、1926年10月から1927年3月まで、中国共産党は上海にて武装暴動を三回実行した。そのあげく、北伐軍部まで攻撃をしてしまった為、武装解除された。広東省のゼネストでデモ隊が警察と毎日激しく衝突した。このような騒動により「4.12事件」[18]が起こり、国民党が共産党の粛清に乗り出した。

   1927年8月、国民革命軍内の共産党が機に乗じて南昌(なんしょう)暴動を起こしたが、すぐに弾圧された。9月長沙(ちょうさ)を攻撃する秋収(しゅうしゅう)暴動も弾圧された。それから中共は「党の支部を連隊に設立する」という統制ネットワークを実施し、井岡山(いおかさん)地区[19]へ移り、農村部に政権を樹立した。

(三)湖南農民暴動——ごろつきの反乱

北伐革命期間、国民革命軍は軍閥を征伐したが、共産党は農村で反乱を起し権力を手に入れようとした。

    一九二七年に起きた湖南農民暴動の反乱も、ごろつきの謀反である。有名なパリコミューンと同工異曲の妙がある。パリコミューンでは、フランスの国民と当時パリにいた外国人達が目撃したのは、ルンペンたちがまったく理想を持たず、破壊力に富む一味でしかなく、瀟洒な建物や屋敷に住み、ご馳走を食べ、目の前の快楽しか知らず、将来のことは何も心配に思うことはなかったことだ。パリコミューンの暴動期間、ルンペンたちは報道の自由を禁じ、国王に宣教していた大司教を人質として捕まえて銃殺し、六十四人の神父も惨殺した。宮殿に放火し、官庁や私邸、記念碑、碑柱などすべて破壊された。 フランスの首都パリの富と美はヨーロッパ中で飛びぬけていたが、パリ・コミューンの暴動で、建物は灰と化し、人々は骸骨と化した。 そのような凶悪さ、残酷さは古今でもめったに見られなかった。

   毛沢東もこう認めていた、「確かに、農民は農村では常軌を逸している。農民協会の権力は最高になり、地主に発言させず、地主の威厳を完全に無くした。それは地主を倒した上、さらに踏みつけたことに等しい。農民が“我々はお前を反動分子としてブラックリストに入れる!”と脅かし、地方の金持ち、紳士階級に罰金を課し、献金を強要し、彼らの輦台をつぶした。農民協会に反対する地方の金持ち、紳士階級の家へは、大勢が押しかけて行って、家畜を殺して、米を持ち出した。 これらの家庭の娘や若い妻が使っていたベットに勝手に入って転げ回ったりした。些細なことでも、人を捕まえては、紙の山高帽子をかぶせ、郷村の中をつれ回した。“お前たち、今、我々を誰だと思っているのだ!”と言って 、やりたい放題して、すべてが異常になり、郷村で一種のテロ現象を作り出した。・・・とにかく、農村で短期間のテロ現象を作らなければならない。そうでないと、権力者と紳士階級を打倒できない。間違いを正すにはやり過ぎが必要であり、やりすぎがなければ間違いを正せない。・・・革命期間内でのいわゆる“やりすぎ”の挙動は、実は革命の需要である」。革命は恐ろしい秩序を作り上げた。

(四)北上抗日——敗走逃亡

   中国共産党は「長征」の事を北上抗日と呼んでいる。「長征」は中国の革命の神話と吹聴した。つまり、「長征」は“宣言書”、“宣伝隊”そして“種蒔機”の役割を果たし、共産党の勝利と、その敵の敗北で終わったのである。

    「北上抗日」は、恥知らずなことに、中国共産党が自分の失敗を隠すための大嘘であった。史実では1933年10月から1934年1月まで、国民党の第五回反包囲戦に惨敗し、農村で獲得した政権を次々と失っていた。その拠点も日増しに縮小し、紅軍は逃亡せざるを得なくなった。これが「長征」の本当の原因である。

   西に向けて、曲線を描くように「長征」を始めた。この路線を択んだ真意は外モンゴルとソ連に近寄る事である。当時、西に寄れば外モンゴルに近づき、腹背に敵を受けることを避け、もし、破られたら、ソ連に入り込めるようにするためである。山西(さんせい)と綏遠(すいえん)の道を選択したのは、抗日の旗を揚げて民心を掌握できる一方、その一帯は日本人がおらず、安全なためだった。日本軍が占拠したのは万里の長城周辺だった。一年後、共産党の長征部隊が陜北(せんほく)に到着した時、中共紅軍の主力は八万人から六千人に減っていた。

(五)西安事変——「間諜」(スパイ行為)によって二度にわたり、
         離間と連合に成功

    一九三六年十二月、張学良と楊虎城(ようこじょう)が西安で蒋介石を軟禁した。これが「西安事変」である。

    中共の教科書によると、西安事変は張学良と楊虎城が武力を持って、蒋介石に一致抗日を迫るための“軍事クーデター”である。善処策を相談するため中国共産党の周恩来が招かれ、結局全国各界の協力で西安事変を平穏解決し、十年の内戦を終え、抗日民族統一戦線を形成した。中共の教科書では、西安事変は難局を乗り切った転換点とされており、中共は、大局を重視した抗日愛国者のように自画自賛している。

    しかし、多くの資料が明らかにされると、西安事変の直前、張学良と楊虎城の身辺にはすでに多くの共産党のスパイたちが集っていたことがわかった。共産党員の劉鼎(りゅうてい)が宋慶齢(そうけいれい)の紹介で張学良の側に来た。西安事変発生後、毛沢東は「西安事変は劉鼎の功績が大きい」と言った。楊虎城の身辺で夫人の謝葆真(しゃほしん)は共産党員で、楊の軍政治部に勤めていたが、1928年1月中共党組織の同意の下、楊虎城と結婚した。後に外交副部長(外務副大臣)にまで成った王炳南(おうへんなん)は、楊家の上客であった。楊と張の周辺は多くの共産党スパイが潜入して、この軍事クーデターを起したのである。

    当初、共産党は内戦時の恨みを晴らすため、蒋介石を殺害しようとした。当時中共の北部は弱小であり、ひとたび戦えば壊滅する状態であったが、中共は欺瞞で張と楊を操り軍事クーデターを成功させた。スターリンが日本の力を分散させてソ連に対する攻撃を回避するため、自ら中共中央部に手紙を書き、蒋介石を殺さぬよう、第二次国共合作を求めた。毛沢東と周恩来も当時の中共の力で国民党を消滅する事は不可能であり、蒋介石を殺しても共産党は国民党の報復により滅ぼされる可能性があると分かっていた。そこで、中共は、やり方を変え、連合抗日を称して、蒋介石に第2次国共合作を受け入れさせたのである。

   先に共産党は軍事クーデターを画策して、蒋介石に銃身を向けていたのに、それとは打って変わって京劇の英雄のように振る舞い、蒋介石に再度共産党と組むことを迫ったのである。中共は災厄を逃れただけでなく国民政府に再度取り付き、紅軍は八路軍に改名され、再び勢力を盛り返した。この巧妙な欺瞞方は天下一品である。

(六)抗日戦争——他人を唆して敵を殺させ、自分は拡大し続ける

    抗日戦争開始時、国民党は百七十万あまりの軍隊、排水量十一万トンの軍艦、各種戦闘機約六百を保持していた。共産党はそのとき1937年11月に新しく編入した新四軍を含めたとしても、七万人を超えなかった、内部の権力闘争も絶えず、一度戦争が始まれば全滅させられる程度であった。中共は、もし軍を出して日本と戦ったら、日本軍一個師団にも勝てないことを良く知っていた。中共にとって、民族統一戦線の中心問題は民族の存亡より主導権を握る事であった。そこで共産党は「蒋介石と連合する過程で主導権を奪い取るために闘争すべきであり、その話は党内に限り、実際の仕事で実現する」という方針を決めた。

    満州(9.18)事変後、共産党は、日本軍との示し合わせ作戦に加担した。中共の満州事変宣言の中で全国民に「国民党の統治区域内で、労働者はストライキを起せ、農民は暴動を起せ、学生は授業をボイコットせよ、軍隊は反乱を起せ」と、中国政府を押し倒すことを呼びかけていた。

    共産党は抗日の旗を高く揚げたが、日本との戦いは平型関(へいけいかん)など数えるほどで、抗日前線で功績と言えるものがなく、後方の安全地帯で地方軍とゲリラを編成し、自分の力と区域を拡大していた。日本軍投降時、投降した軍隊を自身の軍隊として受け入れて九十万の正規軍と二百万の民兵を称する強大な力に拡大した。抗日戦争の前線は基本的にすべて国民党軍にやらせた。抗戦中、国民党の将軍は二百人も戦死したのに、共産党の指揮官はほぼ無傷だった。しかし、中国共産党の教科書では、国民党が抗戦せず、共産党の指導で抗日戦争の勝利を収めたと相変わらず国民に教え続けている。

 (七)延安整風運動(中共による思想教育改造)——
            度肝を抜かれるような人間性の破壊

    抗日の名の下に、無数の国を愛する若者が延安に集まって来たが、延安の整風で多くの若者達が迫害された。建国以来延安は“革命の聖地”とされてきたが、延安整風の罪悪が語られることはない。

    「延安整風運動」は最も恐怖に満ち、最も暗黒で、最も残忍な権力ゲームであった。資産階級の考えを改めると言う名目で、党は人間の文明、自立、自由、容忍、尊厳といった価値を破壊していった。整風の第一歩は、「①個人紹介、②政治履歴、③家庭関係と社会関係、④個人自伝と思想変化、⑤党性の認識」などの各個人の情報収集である。

     これらの情報は、出生時から書かされ、知っている全ての人、出来事、その出来事の発生時間、場所などを繰り返し書かされ続けた。少しでも食い違いがあったら、問題人物になる。また参加したすべての社会活動、特に入党の過程を報告しなければならない。重要なのはそれらの過程における考えであり、最も肝心な事は党性への認識で、思想意識、言論、工作活動における態度、日常生活、対人接触の上で、党性に反するものがないかどうかがチェックされた。思想意識を例に取ると、入党入隊後、党の名目での個人の利益を考えるかどうか、党の仕事に個人の目的の達成を求めるかどうか、革命前途に動揺したかどうか、戦闘で死を恐れるかどうか、家や妻を思念するかどうか等である。評価に関しては客観的基準がないのだから、問題のない者はいない。

    審査する幹部は無理やり書かせた手紙で、内部を粛清しようとしたので、必然的に数多くの冤罪を作り出した。整風当時の延安は人間性の煉獄と化し、多くの幹部を傷つけた。抗日軍政大学に審査する幹部が滞在し、2ヶ月にわたる「赤の恐怖」を引き起こした。即席の自己批判を強要され、模範的な告白、集団の説得、五分間の説得、個別会見、大会報告、赤大根(つまり、外が赤、中が白で、見せ掛けだけの裏切り者の例え)などが繰り広げられた。“写真を撮らせる”では、一人一人演台に上がらせ、観衆に見せるというもので、顔色を変えなければ問題ないが、そうでなければ嫌疑をかけられ、審査対象となった。

    さすがのコミンテルンの代表も、そのやり方には耐えられず、延安の状況は人を憂うつにさせると言った。 交流がなくなり、疑心暗鬼に陥り、緊張と恐れが充満して、真理または冤罪の友人のために弁護しようともしなかった。ただ自分の命を守るのに汲汲としていた。ごろつきがごますりで昇格し、同士を侮辱し、己を卑下するのが延安の日常となった。人々は狂気の淵に突き落とされ、ただ命と職を保とうとするだけで、人間としての尊厳や同志間の信頼などすべてを捨て去った。人々は自分の意見を述べず、党の指導者の文章を暗記した。このやり方は、そのまま共産党による中国建国後のあらゆる運動に取り入れられている。

(八)三年の内戦——売国奪権

   ソ連の二月革命は穏やかな資産階級革命であった、ロシア皇帝も、国家と民族の利益の為に退位し反抗しなかった。レーニンは急いでドイツからロシアに戻り、再び政変を起し、皇帝に退位を迫った資産階級革命者たちを殺害、共産革命を起して、ロシアの資産階級を絞め殺した。中国共産党もレーニン同様国民革命の勝利の果実を奪い取り、抗日戦争後、国民政府を倒す“解放”戦争を起し、中国を再び戦火に陥れた。

   中国共産党は人海戦術で知られている。遼沈(りょうちん)、平津(へいつ)、淮海(えかい)などの戦役[20]では人体を武器,盾にする、最も原始的、野蛮かつ非人道的な戦術で多くの命を奪った。長春攻囲戦のとき、長春城内の食糧を消耗させる目的で、共産党は2ヶ月間、長春を包囲し、中にいる一般民衆も含め一歩も城外に出さなかった。その結果20万人もの人が餓死・凍死したが、恥じる様子も無く“長春解放は刀を血に染める事は無かった”と嘯(うそぶ)いたのだ。

   1947年から1948年の間、「ハルビン協定」と「モスクワ協定」をソ連と結んだ。ソ連に国の権益と東北の資源を売り、その見かえりとして、ソ連による中共の外交上と軍事上の全面支持を得た。協定では、ソ連が中国共産党に50機の飛行機を援助、敗戦した日本軍の武器を二回にわけてすべて提供すること、ソ連のコントロール下にある東北の弾薬や軍用物資も安い値段で中共に提供すること、国民党が一旦東北へ上陸作戦を敢行したら、ソ連と中共は秘密裏に共同して中共の作戦を進めること、新疆(しんきょう)制陸権奪取において、ソ連は中共を援助し、中ソ連合空軍を樹立し、11個師団規模とすること、米国がソ連に提供した130億米ドル相当の武器の三分の一をソ連が東北に運ぶこと、またソ連の支持を取り付けるため、中共がソ連に東北の陸路と空路の通過権を与えること、国民政府と米軍の動向を通報すること、東北の物産、綿花、大豆、その他の戦略物資をソ連に提供して武器と交換すること、ソ連が中国の鉱物資源開発優先権を持つこと、東北と新疆への進駐権、中国でのソ連極東情報局設立権を持つこと、ヨーロッパで戦争が勃発した場合、中共が10万の援軍と200万の労働者でソ連を支援すること、このほか中共は遼寧、安東省特別区を適当な時期に朝鮮に併合させることなどを承認した。

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