【第三評】中国共産党の暴政

序文

2000年11月9日に中国共産党の警官と普段着は天安門広場でつかんで横物を挙げる法輪功の民衆を殴って、約10人はつかまれた。(Getty Images)

   暴政と言えば、中国人は秦の始皇帝による苛政と焚書坑儒を連想するものがある。始皇帝の「天下の資産が尽きるまで政治のために」《漢書・食貨志》という暴虐は、集中的に4つの方面に現れた。「情け容赦のない租税の取り立て、人民の財力を功名心の赴くままに乱用、近隣も連座させる過酷な法律と刑罰、思想統制と焚書坑儒」があげられる。秦が中国を統治した時代、およそ1千万の人口に対して、2百万人の労働者を強制的に徴用した。始皇帝はさらに過酷な法律と刑罰を思想の領域に広げ、はばかることなく思想の自由を束縛し、かつて政治を批判した儒学者を千人あまりも殺害した。

    このような「虎狼の秦」と比較しても、共産党の暴虐は勝るとも劣らない。よく知られているように、共産党の哲学は闘争の哲学であり、共産党の統治も、内外の「階級闘争」、「路線闘争」、「思想闘争」で作り上げたものである。毛沢東は「始皇帝など取るに足らない。彼は460人の儒学者を殺し、私達は4万6千人の儒学者を殺した。人は私達を独裁統治だと、始皇帝のようだと罵るが、それも認める。しかしながら、それでは言い足りてはいない。言ってみれば、それどころではないのである」と率直に言った。[1]

    共産党統治下の中国の苦難に満ちた55年を少し振り返ってみよう。中国共産党が政権を奪い取った後に、いかにして政府の構造を利用し、階級闘争の理論で階級を絶滅させたのか、また、どのように暴力革命の理論で恐怖の統治を実行したのか。「人を殺し」、「心を殺す」ことで、共産党以外のすべての信仰を弾圧して、自らを美化し、中国で「神をつくる」運動の幕を開けた。共産党の階級闘争と暴力革命の理論によって、反体制の社会階級と異分子を粛清し、それと同時に暴力と欺瞞により、中国人民を専制支配下の従順な民としていった。

一 土地改革 — 「地主階級消滅」

    建国してわずか3ヶ月後、共産党は全国一斉に土地改革を展開して、「耕す者に土地を与える」というスローガンを掲げ、耕作地を持たない小作農に地主との闘争を煽り、手段を選ばず、放縦に任せ、道義性などは無視した。そして、土地改革路線の中で、明確に「地主階級消滅」を謳い、農村で階級区別を行い、全国に身分(階級制度)を設け、2千万人に「地主、富農、反(革命的)分子、悪人」のレッテルを貼り付け、社会的に差別し、弾圧し、公民権さえない「賤民」とした。更に、土地改革の仕組みを辺境地域と少数民族にも深く浸透させ、共産党の党組織も迅速に拡大させ、郷には党委員会があり、村には支部を設けるまでに発展した。党支部は党の意図を下達する。彼らは階級闘争の第一線を突き進み、小作農と地主の闘争を引き起こして、10万人近くの地主の命を奪った。更にある地区では地主一家を全滅させ、女子供でさえ容赦しなかった。

    この時期、共産党は全国の農村で「毛主席は人民を救う神だ」、「共産党しか中国を救うことはできない」と宣伝しはじめた。土地改革による不労所得で小作農に実利をもたらし、多くの貧しい小作農は共産党に恩を感じた。そのため、共産党は人民のためにある、と認めた人も多くなっていた。

    土地を得た小作農にとって、「耕す者が土地を得る」という状況は、長くは続かなかった。2年のうちに共産党は、農業従事者に互助組、初級合作社、高級合作社、人民公社などを強引に押しつけた。「纏足の女性」を槍玉に挙げ、歩くことが遅い人々を批判するスローガンを展開し、農村を社会主義へと駆り立てた。全国で食糧、綿、油の販売を統制し、全国の主要な農作物を市場流通から排斥した。更に居住登録制度を設け、農業従事者が都市へ出て働き、居住することを禁止した。農村戸籍の人は、国家の米穀食料販売店に行って食糧を買うことができず、子供も都市の学校へ行くことはできない。農村の子女は農業従事者になるしかない。中国3億6千万の農村戸籍所持者は、二級の公民とされたのである。

    改革の年代に至って、“一部分の人がまず豊かになった”にも関わらず、人民公社から家庭単位で請け負う制度に変わり、収入も増え、社会的地位も相対的に改善された最初の五年間を除き、9億人の農業従事者は、農業生産物の下落に圧迫され、再び貧困に陥った。都市と農村の収入格差が急激に拡大し、貧富の差が大きくなり、農村でも新たな地主や富農が現れた。新華社発表の資料でも、 1997年以来「食糧の主な生産区と多数の小作農の収入が、継続的に横ばいか、減っている」と表明している。つまり農村における農業所得は、増加するどころか減少しているのである。都市部と農村部における所得格差は、1980年代中期の1.8対1から、3.1対1まで拡大した。

二 商工業の改造−資産階級の消滅

    もう1つの消滅させられた階級は、都市と農村の民間資産階級である。商工業改革で共産党は、“資産階級と労働階級は本質的に不一致だ。1つは搾取階級、1つは搾取される階級である。資産階級の搾取は生まれついてのものであり、死しても変らず、消滅させることはできても、改造することはできない”と公言した。この前提で、資本家と商人に対する改造は更に重くなり、「殺人」と「心を殺す」二つの方法が併用された。その原則は、従う者は守り、逆らう者は滅ぼすというものであった。資産を上納し、そして共産党を支持すると言えば、反革命者とみなされない。もし、不平や反感を持つことがあるならば、反革命者として弾圧される対象になる。商工業改造の血まみれの闘争の中、資本家、商人はすべて彼らの資産を上納した。屈辱に耐え切れず自殺した人も多数いる。当時の上海市長・陳毅は、「今日はどれだけのパラシュート兵がいたか?」と毎日尋ねていたという。つまりどれだけの資本家が、飛び降り自殺したのかという意味である。このように、中国共産党は私有制を一気に消滅させた。

    土地改革と商工業の改造と同時に、共産党は反革命者の弾圧、思想改造を始めた。高崗(こうこう)・饒漱石(じょうそうせき)などの党に反対するグループを粛清し、また、胡風(こふう)[2]の反革命グループを打倒した。三反や五反[3]、反革命分子の粛清など全国で大規模な人の改造を始めた。 改造運動のたびに共産党は、党委員会、総支部、支部など関連するすべての政府機構を利用した。3人が一部隊になって、山村深くまで入り込んだ。あらゆるところに浸透し、すべてのことに手を伸ばしていった。このような戦争時代に組み込まれた、党支部組織の流れを汲む統治ネットワークは、その後の政治運動で主要な役割を果たしてきた。

三  民間宗教組織取締りと宗教弾圧

    中国共産党は建国後、宗教に対する暴虐な弾圧と民間宗教組織に対する全面的な取締りを行った。1950年各地の政府に対し、全面的に民間宗教組織を取り締まることを指示した。封建的な民間宗教組織は国民党のスパイ、反革命分子、地主及び富農にコントロールされているとした。この全国の市町村まで波及する運動の中で、政府は認定した階級を総動員し、民間宗教組織に打撃を加えた。政府はすべての「迷信」組織、たとえばキリスト教、カトリック教、道教(特に一貫道)、佛教などを解散させた。これらの教会、佛堂、分派は政府に登録して、過ちを悔い改める約束をしなければならなかった。登録せず、それが露見すると厳重な懲罰が与えられた。1951年、政府は民間信仰を続けるものに対して、死刑あるいは無期懲役を言い渡すとした。

    その運動で神を信じ、善に向い、法を守る普通の人々を対象に弾圧した。統計によると、合計でおよそ三百万人の信徒、民間人が捕らえられて殺された。都市及び農村で、全世帯が取り調べに遭い、農村で供物を奉げる「かまどの神」までもが破壊された。殺人と同時に、更に共産党のイデオロギーが唯一合法的なイデオロギーであること、共産主義が唯一合法的な信仰であることを確立した。それからいわゆる「国を愛する」という信者が現れた。「国を愛する」信者になれば、国家の憲法による保護を受けることができる。実際には、民衆がどのような教えを信じるか、ということなど関係なく、基準は一つだけである。つまり、全て党の指揮に従って行動し、共産党がどんな教会や寺院よりも、上位にあることを認識しなければならない。キリスト教を信じるなら、共産党はキリストの神であり、佛教を信じるなら、共産党は佛教の教祖の教祖であり、回教なら、共産党はアラーのアラーである。活佛といっても、共産党の認可がなければ活佛になれない、といった具合である。つまり、個人は党に従い言うべきことを言い、行動をしなければならない。信徒は各自の信仰を唱えながら、党の意図を守る。そうしなければ、弾圧の対象となるのである。

    2万あまりのキリスト教徒による、中国22省207都市56万人の民間キリスト教信者の家庭訪問によって分かったように、その信者の約13万人が監視されていることが確認できた。 1957年より以前に、一万一千人余りの信徒が殺され、大量の信徒が不法に逮捕され、あるいは、罰金を徴収されることが余儀なくされた。これにより、共産党は中国で地主階級、資産階級を消滅させ、都市及び農村で神を信じ、法律を守る人民を迫害し、共産党という一つの邪教が、天下統一の基礎を建てたのである。

四 反右派運動 ━全国規模の洗脳で手下にする

    1956年ハンガリーの学者たちにより結成されたペテーフィ倶楽部[4]がソ連軍によって虐殺され、 「ハンガリー」事件と言われ、毛沢東は以後の戒めとした。1957年、中国で「百花斉放、百家争鳴」をスローガンに、中国の学者と大衆に「共産党の整風(綱紀粛正)を助けよう」と呼びかけた。その意図は、「党に反対する者」を引き出すことであった。毛沢東は、各省の党委員会書記への手紙の中で、整風を言いつつ「蛇を穴から引き出す」という意図を伝えていた。

    その時、人々に自由に発言させるために作られたスローガンがある。「弱点につけこまない、打撃を加えない、帽子(レッテル)をかぶせない、後から追求しない」。結局、一度の反右派闘争で、55万人の「右派分子」が確定した。27万人が公職を失った。23万人が「中右分子」と「反党反社会主義者」と決められた。ある人は、毛沢東の策略を整理して四箇条とした。それは、1)蛇を穴から引きだす。2)罪状をでっち上げ、不意打ちを加え、決め付ける。3)表向きには善意の批判により、更正を助けると言いつつ、実は非情にも打撃を与える。4)自己批判を迫り、限りなく大げさに取り上げる。というものであった。

    これだけの数の右派と反党分子を、30年間も寒冷貧困な辺境地区に流罪とさせた。「反動的な言論」とは一体何であろうか?当時、頻繁に批判された右派の「三つの反動的な理論」というものは、羅隆基(らりゅうき)、章伯鈞(しょうはくきん)と儲安平(ちょあんへい)による数回の講演会発言から構成されたものである。羅隆基は「1つの共産党と民主諸党派の党員で構成される委員会を作り上げ、三反、五反[3]、反革命分子粛清の仕事の中の間違いを検討すること」、章伯鈞は「国務院に対して、政協、人民代表大会などに態度を表明させ、政策の策定の過程に携わるよう提案した」、儲隆基は「党外人であっても見解、自尊心と国家に対する責任というものがある。全国規模において、あらゆる部門、科、グループで、党員だけを責任者にするようなことをしない。さもなければ、細かいことでも党員の顔色で決まるようなこととなる」、彼らはこのようなことを提案していたのである。

    これらの人々は、明確に共産党に従う意志を表明しており、その意見もすべて魯迅[5]が述べたような「旦那さま、あなたの長衣は汚れております。どうぞお脱ぎになってお洗い下さい」 という範囲を超えてはいない。

    「右派」だといわれた人々は、打倒共産党など考えておらず、ただ意見を述べ、提案をしただけなのであるが、これだけで数十万人が人身の自由を失い、数百万の家庭に苦難をもたらした。更に行われたのは「党に心を預ける」、白旗を抜く(社会主義で白というのは、資産階級の例えであり、資本主義の手段であり、当時の表現として“赤旗を差し、白旗を抜く”というものがあった)、新三反、田舎での強制労働及び前回免れた人たちに、右派の烙印を押すことであった。当部門のリーダー、特に党委員会書記に意見があるならば、党に反対ということになるのである。その結果として、軽い者は絶えず批判され、重い者は労働による矯正あるいは、全家族が農村へと送られることとなる。これらの人々は、その子女も含め、大学、軍隊に入る権利を奪われ、県政府のある町で仕事を探すことも許されない。更に、労働保険、公費医療をも失い、二級公民の中の賤民とされたのである。

    こうして、一部の学者は日和見的となり、権力になびく二重人格となった。常に「赤い太陽」に追随して、共産党の「御用学者」となり、中共の言われるままとなった。他の学者は、孤高を保ち、政治からは距離を置いた。 国家に対して、伝統的に強い責任感を抱いていた中国の知識人たちは、それ以来沈黙を続けている。

五 大躍進−鹿を指して馬と為し、以ってその忠を試す

    反右派運動の後、中国は事実を恐れるようになった。嘘に耳を傾け、出鱈目な話をでっち上げ、デマと偽りの行為で真実を避け、覆い隠していた。大躍進は、全国範囲の集団嘘の大爆発であった。全国民は、共産党という邪霊の導きに従い、馬鹿げたことをするようになった。嘘をつく者も騙される者も、自らを欺き人をも騙すようになった。この嘘と愚行の中で、共産党の暴虐な邪気は、全国民の精神にまで入り込んでいった。人々が大声で歌うのは「私は玉皇(ぎょくこう)、私は竜王、三山五岳に道を開けと命じ、私は来たのだ」[6]とかいう躍進歌であり、実施しているのは「一畝(674.322㎡)当たりの収穫量を1万斤(5,000キログラム)、鋼鉄生産量は倍増、10年でイギリスを超え、15年でアメリカを超える」という雄大ですさまじい出鱈目な計画であるが、数年の間覚めることがなかった。それによって深刻な大飢饉となり、餓死者が野に溢れ人民は生きた心地がしなかったのである。

    1959年の廬山(ろざん)会議で、 会議参加者は誰もが、彭徳懐(ほうとくかい)[7]の意見が正しいことを知っていた。誰もが毛沢東の大躍進は荒唐無稽で、独断専行だと知っていた。 しかし、毛沢東を支持するかどうかは、「忠」と「奸」を分ける生と死の境界線である。昔、趙高(ちょうこう)[8]は、是非を転倒して、鹿を指して馬だと言った。しかし、それは決して馬と鹿のことを知らないからではなかった。世論を左右させ、徒党を組んで個人の利益を求めるのが目的だった。 人を盲目的に従わせ、論争する勇気すら与えなかった。 最後、彭徳懐は、本心と裏腹に自らを粛清する決議に署名した。 同様に、文化大革命後期に、皦スは、退職を迫る政府の決定に異議を唱えることはしないと、約束をせざるを得なかった。

   人類社会は経験によって世界を認識し、視野を広げるのに対し、共産党は人々に対し、歴史の経験と教訓を知らしめない。更に政府の情報封鎖により、人々は是非を弁別する能力が、日増しに低下してしまうのである。次世代の人々は、先任者の運動における理念や理想と経験に対して、完全に無知となり、歴史を断片的にしか理解できず、新しい事を判断することができなくなる。自分では正確だと思い込むが、実は大きな間違いを犯してしまう。共産党の愚民政策は、このような方式で行なわれてきたのである。

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