序文
中国共産党政権の成立から55年間の歴史は、血と嘘で記された歴史である。その流血の裏にある事実は、残酷非道であるばかりでなく、ほとんど世間に知られてない。中国人の6千万ないし8千万もの罪のない人々の命が犠牲となり、更に多くの家庭が迫害された。今日でも、多くの人たちが依然として、なぜ中共は人を殺す必要があるのかと考えている。今日でも中共は相変わらず、法輪功学習者を虐殺しており、更に2004年11月初旬に至っては、漢源で抗議する民衆に対して発砲し制圧した、その時も多くの人たちが思ったことは、いつ中共が虐殺を止め、対話することを学び、銃を用いるのではなく話し合いをするかということである。
毛沢東が「文化大革命」を総括したとき、「国内が大いに乱れ、そして泰平の世となった、七、八年後にまた同じようなことになるであろう」と述べた。[1] はっきりと言うならば、つまり七、八年ごとに政治運動を行い、七、八年ごとに、再度大量の人たちを殺すことと言える。
共産党のこのような殺人には理論的根拠があり、現実に必要なことなのである。理論から言うと、共産党が「プロレタリア独裁」と「プロレタリア独裁の基での継続革命」を信じ、政権を打ち立ててから、「地主を殺す」という方法で、農村の生産秩序を解決し、「ブルジョアを殺す」ことで、商工業の改革をなし遂げ、都市の生産秩序を解決する。この二つの階級を抹殺してから、経済における基礎的問題をほぼ解決した。イデオロギーの問題も殺人によって解決しなければならない。その中に、「胡風の反党集団」を絶滅させることと「反右」を含み、それをもって、知識人たちを粛清する目的を達成する。「民間信仰団体及び結社」を殺すことで、宗教問題を解決する。「文革の人殺し」は文化及び政治に関する党の絶対的な指導権問題を解決するためである。「天安門事件」の殺人は民主化を求める問題を解決するためであり、政治危機から逃れる為である。「法輪功を迫害する」ことは、信仰及び健康増進運動等々の問題を解決するためである。
このすべては、みな中共がその地位を強化し、その統治を維持する過程で、絶えず、経済危機(政権を打ち立ててから、物価が高騰し、文革後の経済が崩壊する寸前に)、政治危機(一部分の人たちが党に服従せず、一部分の人たちが党と政治権利を奪い合う)、信仰危機(旧ソ連の解体及び東欧激変事件、法輪功事件)を解決するうえで起った、必然的な反応である。法輪功事件以外の、前述したすべての政治運動は、中共悪霊への充電であり、革命意欲を掻き立てる過程は、即ち党の組織に対する検査で、全ての党の要求に符合していない党員は、一切淘汰されてしまう。
それとともに、共産党の殺人は現実に必要でもある。共産党は立党当時から、無頼漢やならず者が、人を殺し、作り上げたものである。人殺しを既に始めたので、絶対に途中止まることなく、しかも絶えず恐怖を作り上げ、人民を恐怖の中におき、人民は党が強硬すぎるため、頭を下げ言いなりになるという現実を認めざるをえない。
表面的に、多くの事例は、中共が「受身の立場の殺人」のようで、社会に偶然の事件が起り、偶然に中共の悪霊及びその中共の組織的殺人メカニズムに触れたようであるが、実は、「偶発」の裏に隠れている周期的な殺人は、中共にとっては、必然なことである。そうでなければ、喉元過ぎれば熱さを忘れることになり、二年間ほど殺人をしないと、人々は中共が既に改善されたという錯覚に陥ってしまい、甚だしい事例としては、89年(天安門事件)民主運動の理想青年と同様、民主化を性急に求めることになりかねない。
七、八年ごとに一度大量殺人をすれば、人々に恐怖感への記憶を絶えず刷新することができる。成長したばかりの若者たちに警告し、共産党に反対し、中共の絶対指導権に挑戦しようとする人たちや、歴史の本来の面目を回復しようと図る人たちに、「プロレタリア独裁の強烈な打撃」を食わすに違いない。この点から見ると、殺人とは、中共が統治を維持するための最も必要な手段の一つである。血の債務がますます多くなる状況の下で、屠殺用の刃物を捨てると、自分自身を民衆に渡して清算されることになる。それゆえ、中共の人殺しは、大量に殺戮して、死体を至る所に放置するばかりでなく、しかも、その手段はとても残虐で、特に、政権を打ち立てたばかりの時期には、そうしなければ、民衆を震え上がらせることができなかった。
恐怖を作り出すための殺人であるため、誰を殺し、誰を殺さないか、ということに理性などいささかもない歴代の政治運動に中共は、「集団殺害」政策を利用してきた。「反革命を鎮圧する」を例として、中共は反革命の行為を鎮圧することではなく、反革命「者」を鎮圧するわけである。例えば、ある人が無理やり兵役に徴用され、わずか数日間、国民党の兵隊になったという事実だけで、台頭した中共政権に対し、何ら反対していないにもかかわらず、やはり処刑されるのである。なぜならば、その人は「歴史反革命」に属しているからである。土地改革の過程で、中共は、甚だしく「禍根を根絶する」という絶滅方式を取り、地主を殺害する以外に、その家族全員を殺す。1949年以降、中国では人口の半分以上が中共の迫害を受けたことがあり、不自然に死亡した人数は6千万ないし8千万と推定され、二度の大戦における死亡者数の総数を上回っている。
世界の他の共産国家と同様、中共はほしいままに、民衆を屠殺するばかりでなく、内部に対しても血生臭く粛清し、手段も極めて残虐であり、その目的の一つは「人間性が党性に勝った」異分子を排斥するためである。人民を脅迫する必要ばかりでなく、内輪の人に対し、脅迫が必要である。それは、「難攻不落の堡塁」を形成させるためである。
文化面において、正常な社会では、人間と人間との間の愛と思いやりを満たし、生命への畏敬と神への感謝の気持ちを溢れさせる。東洋人は「己の欲せざるところを人に施すなかれ」[2]と言い、西洋人は「己を愛する如く他人を愛せ」[3]と言っている。共産党だけが「今までの、すべての歴史は階級闘争の歴史である」[4]と言い、「闘争」を維持するために、人民の間に、憎しみを煽らなければならない。中共自身が人を殺すばかりではなく、大衆と大衆との間で殺しあうことを唆す。人民を絶えず人殺しの中におき、他人の苦痛及び命を無視することを教え、色々な非人道的な残虐な暴行に慣れてしまい、無頓着にする。運良く暴行が免れることを最も幸いなことだと思わせ、中共の統治が残虐な鎮圧によって維持されることができるようになる。
それゆえ、中共は何十年もの間、虐殺の中で、数え切れない生命を破壊した。更に、中華民族の精神をも打ち砕いてしまった。数多くの人たちが、残虐な闘争の過程で、条件反射を形成され、中共が殺戮の刀さえ上げれば、すぐに、すべての原則を放棄し、一切の判断力を無くし、投げ出してしまう。ある意味から言うと、彼らの精神は既に死んでいる。これは肉体の死亡より遥かに恐ろしいことである。
一 殺戮は麻を切るが如し
毛沢東が政権を打ち立てる前に書いた文章の中で、既に「われわれは反動派と反動階級の反動行為に対し絶対に仁政を施さぬ」と示した。[5] 言い換えれば、中共が北京に入る前、とっくに「暴政」を実行する決意を表明し、しかも、それに「人民民主専制」という立派な名前を付けた。以下にその例を挙げる。
(一)反革命鎮圧と土地改革
中共が1950年3月に出した《厳しく反革命分子を鎮圧する指示》より始まった運動は、歴史上「鎮反」運動と呼ばれる。歴代の皇帝が即位後に、世間を大赦するのと異なるのは、中共は登場すると即、斬殺の刀を上げた。毛沢東は、ある資料の中で「極めて多くの地方で、あれこれ気兼ねして大っぴらに反革命分子を殺すことができない」と述べていた。1951年2月、中共中央は再び、浙江省と皖南以外に、「その他の殺人が足りない地区、特に大、中都市では、引き続き躊躇することなく一まとめに逮捕し一まとめに処刑しろ。止めるのが早すぎてはならない」と指示を与えた。毛沢東は「農村で、反革命を斬殺するのは、一般的に、人口の千分の一を超えるべきで、…都市では、千分の一より少なくする」という指示を与えた。当時の中国は、6億の人口で計算すると、毛の至上命令だけで、少なくとも60万の人間の首が刎ねられた。その「千分の一」という数字の比例については、どういう方法で算出したものであるかどうかは、知るべくもないが、毛は、おそらく気まぐれで、この60万人の命を下地にすれば、人民に恐怖感をもたらす最低の規模に、十分であると考えたのであろう。それ故、このような指標を下したのであろう。
処刑された人たちの罪が、死刑に価するかどうかなどは、中共はまったく考えることのない問題である。1951年、中共が公布した《中華人民共和国反革命分子を懲罰する条例》によると、「デマを飛ばす」ことさえも、即時死罪にすることができる。「鎮反」と同様、勢いが激しい「土地改革運動」を行っている。実情は、中共は20世紀20年代に、既にその占領区域に「土地改革」を始めた。表には、「太平天国」[6]の「有田同耕」に似たような理想を実現させ、実際の、本当の目的は、口実を作って、人を殺すことだ。中共党内第4位の人物である陶鋳は、「村ごとに血祭りに上げ、各世代を闘争に参加させよう」という「土地改革」スロ−ガンを提示した。つまり、各村とも、地主を銃殺するということである。
本来なら、土地改革に、殺人などはまったく必要がなく、同様に、台湾政府のような買戻し方式を採用することができるにもかかわらず、もともと匪賊とルンペン・プロレタリア−トに頼って始まった中共は、「奪い取る」ことしか分からない。他人のものを奪い取ったならば、恨みが怖いため、いっそのこと、根こそぎにしてしまう。「土地改革」のとき、頻繁に見られた殺人方法は、闘争会である。地主や富農たちに、いくつかのでっち上げの罪名を被せ、それから演壇の下の人々にどうするのかと尋ねる。演壇の下に、事前に手配した中共党員または積極的行動をする人々が、やらせで「殺すべきだ!」と大きな声で叫ぶ、それにより、地主や富農たちはその場で処刑されてしまう。当時、農村に若干の田畑を持っている者は皆、何らかの「覇」として定められた。よく百姓をいじめる者は「悪覇」と呼ばれ、常に大衆のために善行を行う人が「善覇」と呼ばれ、何にもやっていない者は「不覇」と呼ばれたが、このような区別に本質的な違いがない。なぜならば、どの種類の「覇」の結末も、常に同様にその場で、処決されてしまったのである。
中共の1952年末までの公布によれば、消滅された「反革命分子」
は240万人に達し、実際には、国民党が任命した県知事から、地方町内会の10人ごとグル−プの甲長(組長)までの公務員や教師及び地主等は、少なくとも500万以上の人たちが殺害された。このような「鎮反」と「土地改革」は、次にあげるような、最も直接的な効果があった。第一に、従来の中国の基本権力の組織は、基本的に農村の宗族による自治は、その土地の有力者が地方自治のリ−ダ−になっていた。中共が「鎮反」及び「土地改革」を通して、本来のシステムの管理人員を殺し尽くし、「各村とも党支部がある」ことによって、農村に対する全面的なコントロ−ルを実現させた。第二は、「土地改革」と「鎮反」運動を通じて、大量の財産と金銭を略奪した。第三は、地主及び富農たちへの残虐な鎮圧を通して、庶民たちを震え上がらせる効果を発揮した。
(二) 「三反」、「五反」運動
「鎮反」と「土地改革」が主に農村の基本的な階層を目標としたものとすれば、続いてできた「三反、五反」運動は、即ち都市の中の虐殺運動である。「三反」運動は、1951年12月から、中共内部幹部の腐敗を対象とし繰り広げた「汚職に反対し、浪費に反対し、官僚主義に反対する」という運動であった。当時、腐敗幹部を処刑したが、その後、すぐ引き続き中共は、其の幹部たちが悪くなったのは、みな、資本家たちの誘惑のせいだと思った。そこで、次の年の1月から、「五反」運動が始まった。即ち、「贈賄に反対し、脱税に反対し、国家財産の窃盗に反対し、手抜き及び材料をごまかすことに反対し、国家経済情報の窃盗に反対する」という運動である。
「五反」運動は、実際には、資本家の財産を略奪することであり、甚だしくは、財物を強奪するために人を謀殺することである。当時の上海市長陳毅は、毎晩ソファ−に体をもたれ、のんびりとお茶を持ち上げ、報告を聞きながら、「今日は、どのぐらいのパラシュ−ト兵が降りたのか」と問う。つまり、商人が何人飛び降り自殺をしたか、と聞いていたのである。「五反」運動にあって全ての資本家は、災難を避けることができない運命となった。いわゆる「脱税に反対する」ことは、光緒時代の上海開港当初から計算した膨大なもので、資本家たちは、家財を投げ打っても、「税金」を払えないことになり、自殺しようと思っても、黄浦江に身を投げることもできない。なぜならば、香港へ逃げたと言われる恐れがあり、家族たちが続き、返済を求められることを避けるため、仕方なく建物から飛び降りて自殺し、中共に死体を見せれば、諦めてもらえるということである。当時、上海高層ビルの両側を、あえて歩こうとする人はいなかった。上から飛び降りた人に押しつぶされることを恐れがあったからである。
1996年、中共中央党史研究室などの4つの部門により、共同編纂された《建国以来歴史政治運動事実》の報告によると、「三反、五反」運動中に、32万3,100余りの人が逮捕され、280数人が自殺したか、または失踪した。1955年の「胡風に反対する」運動では、5,000人余りが巻き添えにされ、500人以上が逮捕され、60人ほどが自殺した。12人は不自然な死亡である。その後も引き続いた「反革命分子粛清」運動の中で、2万1,300人余りが死刑判決され、4,300人ほどが自殺、失踪した。[7]
(三)大飢饉
中国共産党が建国した後、最も多く死亡者を出した政治運動は「大躍進」[8]後の大凶作であった。紅旗出版社が1994年2月に出版した「中華人民共和国歴史実録」では、表題『大飢荒』の中で、「1959年から1961年までの死亡者及び出生者数には不自然な部分がみられ、減少した数は約4千万人と記されている。…中国の人口が4千万人も減少したこと自体が本世紀においての世界最大級の“凶作”であるとしている。実際、海外及び国内の学者らによると、飢餓による死亡人口は、統計によると、3千万人から4千5百万人であると言われている。[9]
今回の大飢饉を、中国共産党は「三年の自然災害である」と事実を歪曲して報じた。実際、その三年間の気候は穏やかであった。大規模な洪水、旱魃、台風、津波、地震、霜、雹、害虫などによる自然災害は一度もなかった。これは全くの「人的災害」であった。「大躍進」と言う名目で、全国民を挙げての製鋼事業のために、農作物の収穫が出来ず、腐るまで放置された。しかし、当時は各地でそれぞれの頭角を争うため、柳州地区の委員会第一書記である賀亦然氏は、自ら環江県で『1畝(1/15ヘクタール)で、6万5,000㎏のお米を収穫した』とのでっち上げ豊作劇をトップニュースに仕立てた。折しも廬山会議の後であった。党が正しいことを証明するために、中国共産党は全国で「反右派」を起こした。そして、共産党は全国ででっち上げた農産物の生産量に従って穀物の買い上げを実行した。農民の食料、種物、飼料は全て取り上げられた。徴収不足が出た場合、その場で農民が食料を隠したと農民のせいにした。
賀亦然氏は「柳州地区でどれほどの人が餓死しても、一位を争うのだ」と揚言した。ある農民は全てが取り上げられ、尿つぼに隠した一握りのお米しか残されなかった。環江県馴楽区委員会は、農民に対して、食料があっても食べられないようにするため、「火を消し、鍋をしまえ」とまでの命令を下した。民兵は夜間の巡回で明かりを見つければ、そこの家に対して捜査を行い、逮捕した。多くの農民は、野菜と樹皮を煮て食べることすらできず、餓死した。
過去において、凶作が発生した際、政府は国民に対し食料の供給を行い、凶作発生地区の人々が他の地区へ避難することは許されなかった。しかし、中国共産党は国民が避難すること自体、「党の威信」を損なうと考え、避難する人々が逃げ出さないように、民兵を派遣し、農村から他の地区への交通道路を封鎖した。凶作発生地区において耐えきれず、糧食管理所へ食料を盗みに来た人々は、銃撃され、鎮圧された。さらに、飢え死にしそうな国民を銃殺し、反革命者だとでっち上げた。当時、甘粛省、山東省、河南省、安徽省、湖北省、湖南省、四川省、広西省などの多くの地区には、餓死した人々の死体が至るところに放置されていた。ご飯を食べられない農民達は更に「水利を修理」、「鉄鋼を煉製」へと行かされ、歩きながら次々と倒れてしまう人が多くいた。しまいには、死者が出ても埋葬してあげる人さえいなかった。多くの村は、このように次から次へと消滅した。
中国史上最も厳しい大凶作の時代には、「子供を交換し食す」と言うことがあった。しかし、もっと酷いことに、中国共産党の統治下では、死人の肉を煮込んで食するということが、しばしば現れた。更に他の地区から逃げてきた人や、自分の子供まで殺して食べてしまうことも、発生した。次のような事例があった。「ある農家では家族は次々と食べられ、父親と一男一女の子供しか残らなかった。ある日、父親は娘を外へと行かせた。その後、娘が戻ると、弟がいなかった。あるのは、鍋に油が浮きプカプカとしている白っぽいものであった。そして、釜の横には骨が放リ出されていた。数日後、父親は又も鍋に水を足しはじめた。そして、娘を呼び寄せた。娘は恐れドアの外で号泣した。父親に『お願いです。お父様、私を食べないでください。私は芝刈りをし、火を炊いてあげます。私を食べたら、誰もお父様の面倒を見る人がいなくなります』」(作家沙青氏の報告文学『依稀大地湾』より抜粋)。
このような人倫の惨劇がどれほど起きたのかは、我々には分からない。しかし、このような惨劇を数多く作った中国共産党は、このような惨劇を歪曲して、党が人民を率いて「自然災害」に対抗する頌歌と為し、党は「偉大、公明、正しい」とまで自画自賛した。
1959年廬山会議で、人民のために請願した彭徳懐氏は、ひどい目にあわされた。多くの真実を語る幹部が、次々と免職させられ、監禁、尋問捜査された。大凶作が発生した時期になると、幹部らは自分達の職と地位を守るために、本当のことを語る者は誰一人としていなかった。多くの国民が餓死した真実も隠した。陝西省に対して、甘粛省が救援物資を提供する提案をした時、陝西省は自分達の食料は、食べきれないほどあると言う嘘偽りの口実で断った。
この大凶作は中国共産党幹部に対する検閲でもあった。中国共産党の基準によれば、彼らは、勿論「合格」した幹部達である。何故なら、彼らは数千万人が餓死した事実を隠しても絶対に本当のことは言わない。共産党の指示通りに行ったことに対し、自分の良心を左右する情けや天理などと言ったものはないのである。大凶作以降、人民の生死を見放した省の幹部らは、簡単な形式上の検討事項で事を終了させた。当時四川省の省委員会書記であった李井泉氏は、飢餓に瀕している数百万人を見放したにもかかわらず、後に西南局第一書記にまで抜擢された。
(四)文化大革命、「六四」から法輪功(ファールゥンゴン)まで
文化大革命は1966年5月16日に始まった。この期間は中国共産党の中で、「10年の災禍」と言われている。胡耀邦氏は、ユーゴスラビアの記者に「当時は、約一億人が連座された。中国の人口の10分の1に相当する」と述べた。
中国共産党史研究室などで合同編集した『建国以来歴史政治運動事実』の中で、次の数字が明らかにされた。「1984年5月、中国共産党中央は更に2年7ヶ月に亘り調査し、そして、事実を確かめてから、文化大革命に関連する数字を新たに統計した。420万人が監禁審査され、172万8千人余りが不正常の死亡者となった。13万5千人余りは現行の反革命の罪で死刑に処された。武力闘争中に23万7,000人余りが死亡、703万人余りが負傷して不具になった。7万1,200戸余りの家庭が完全破壊された」。専門家が中国県誌の記録に基づいて統計した数字では、文化大革命での不自然な死亡者数は、少なくても773万人と出ている。
殺人の他に、文化大革命の初期に、自殺の波が現れた。多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉口(日含)、儲安平などが自ら命を断った。
文化大革命時代は、中国が最も「左派」となり狂気じみた時代である。この時代「殺人」が、ある意味では「革命的」を表した。故に、「階級の敵」に対する虐殺も残酷さと野蛮さを極めた。
しかし、「改革開放」は情報の伝達を大きく発展させた。多くの海外ジャーナリストらも1989年、北京で起きた「六四」天安門事件で殺人を目撃し、戦車を使い学生達を轢き殺した映像を海外へ流すことが出来た。
江沢民は十年後、1999年7月20日に法輪功(ファールゥンゴン)を弾圧し始めた。2002年末、中国大陸の内部情報は、既に7,000人が各地の拘置所、強制労働収容所、刑務所及び精神病院で虐待され死亡したとしている。平均、一日に7人が虐殺されたことになる。
今日、中国共産党の殺人の数は過去のように百万人、千万人の単位にはなっていない。これには二つの大きな原因が絡んでいる。一つは、国民は中国共産党の党文化に支配され同化されている。もう一つは、中国共産党内の巨額の汚職行為及び国庫の公金の着服が、中国を「輸血型」経済にさせてしまったことだ。外資が中国の経済成長及び社会安定を維持する重要な柱となっている。中国共産党は「六四」天安門事件以降に受けた各国からの経済制裁の記憶が未だに生々しく残っている。公然と殺人を行ったならば、外資の撤退を招き、自らの統制を危険に曝してしまうからである。
しかし、中国共産党は、裏では殺人行為を止めてはいない。ただ表では極力、血まみれの事実を隠蔽しているのである。
二 残忍極まる殺人手段
中国共産党が行ったことは、全て権力奪取と権力を維持するためである。そして、殺人が権力を維持するための重要な手段であった。殺人方法が残忍極まれば極まるほど、殺される人数も増える。そうすることによって、更に多くの人々を脅かすことが出来る。このような恐喝は、戦争時代より以前から既にあった。
(一) 抗日戦争における華北の暴行
米国第31代大統領フーバー氏が、世界に向け雷震遠神父の著作『内部の敵』[10]を推薦した際、「この本の中で共産主義の恐怖に満ちた行動が、そのままむき出しにされている。全世界で広がっている共産主義と言う悪魔勢力について、本当のことを知りたい全国の皆さんにこの本を推薦する」と語った。
雷震遠神父は、著書の中で、中国共産党はどのような暴力を用いて民衆を恐喝するかについて、幾つかの物語を述べた。ある日、中国共産党は、ある村の全ての村民を村の広場へ集まるように指示した。子供も先生達に率いられて広場に集まった。彼らに13名の愛国青年が首を切られるのを見てもらうのが目的だ。でっち上げの罪名を読み上げられた後、共産党は既に恐怖で顔面蒼白になった教員らに、子供達と愛国の歌を歌うように命じた。歌声の中に出てきたのは踊り子ではなく、刀を手に持つ首切り人であった。『首切り人は、身体が丈夫で力が非常に強い凶悪な共産党青年兵だ。彼は一人目の犠牲者の背後に立ち、両手で幅の広い鋭い刀を持ち上げ、目にもとまらぬ速さで、スパッと切り落とした。首は地面に音を立てて落ち、鮮血がほとばしった。子供達の歌声はヒステリックになり、乱れた泣き声となった。教員らは拍子をとって音を整えようとしたが、混乱の中で鍾が鳴った』。
首切り人は刀を連続13回振り、13人の首を切り落とした。その後、中国共産党の兵士達が13人の遺体を切り開き、心臓などを取り出し、食すために持ち帰った。これらの行動は、全て子供達の目の前で行われた。「子供達は恐怖で顔面蒼白になり、何人かが嘔吐した。教員らが子供達を叱りながら、集合させて列を作って学校へと戻った」。
以降、雷神父は、子供達が強制されて殺人を見に行かされたのをよく見かけた。子供達はこのような血だらけの場面に慣れるまで、何度も同じ事を繰り返し見せられた。子供達は次第に麻痺し、中には殺人を見た刺激によって、快感を得る子供さえ出てきたほどであった。
中国共産党は殺人が恐怖に満ち、刺激的なものでなくなったと感じた時、彼らはあらゆる残虐きわまる拷問を考え始めた。例えば、大量の食塩を食べさせ、受刑者が渇ききって死亡するまで水は一滴も与えないでおく。又は、衣服を剥ぎ取り素っ裸にして、一面に砕かれたガラス破片の上を転がさせる。又は、真冬の凍りついた川に穴を開け、受刑者をその穴に放り投げ、凍死或いは溺死させる。
「山西省ではある共産党員が非常に恐ろしい刑罰を考えた。ある日、彼は町でぶらぶらしている時に、あるレストランの入り口で足を止めた。彼はご飯を炊いている大きい鍋をしばらく見つめていた。その後、彼は幾つかの大きい鍋を取り寄せた。反共産党の者を何人か捕まえて来て、いい加減な審判をし、鍋に水をいれ煮立たせた。審判終了直後、三人の受刑者は衣服を剥ぎ取られて鍋に放り込まれた。人間を生きたま茹でて死なせた。…平山で、私はある父親が生きたまま皮を剥ぎ取られて死亡したのを目撃した。彼の息子は、共産党によって、強制的に自分の父親が残酷に処刑されるのを見せられた。共産党は父親の身体に酢と酸類のものをこぼし、一枚の人間の皮が瞬く間に剥ぎ取られた。皮は背中の上部から徐々に両肩まで剥がされて行った。全身の皮が剥がれ、頭皮だけが残された。彼の父親は全身の皮を剥ぎ取られた後、数分後に死亡した」。
(二)「紅八月」赤色の恐怖と広西省人食い事件
中国共産党は、政権を手中にしてからも、暴行を慎む意思は全く見られず、文化大革命の時、このような暴行は更に発展し拡大された。
1966年8月18日、毛沢東は天安門城門で「紅衛兵」の代表と面会した。宋任窮の娘宋彬彬は、毛沢東から「紅衛兵」の腕章を授けられた。毛沢東は彼女の名前の由来が「上品で礼儀正しい」と言う意味を知り、彼女に「武力も必要だ」と言った。彼女は以降自分の名前を宋彬彬から「宋要武」に改名した。
意気込みに燃えた「武装闘争」がすぐに全国で展開された。これら中国共産党により無神論教育で育てられた若い世代は、何一つはばかる事はなく、恐れる事もなかった。共産党の直接指導の下、彼らは毛沢東の指示に従い、愚かにも、狂気じみた大胆不敵な悪事を働いた。むやみに人を殴打し、人の家財を奪い取るなどのことは全国に亘り多発した。多くの地区は「黒五類」(地主、資本家、反革命者、悪人、保守派)に対し、「根こそぎ抜き取る連座」の絶滅政策を取った。大興県が最も典型的な地区であった。8月27日から9月1日まで県内の13公社、48大隊に対し、前後325人を殺害した。年齢は、最年長で80歳、最年少はわずか生後38日だった。計22戸の世帯が全滅させられた。
「生きたまま人を殴打して死なせることは日常茶飯事。沙灘町で、“紅衛兵”の男子グループが鉄のチェーンと皮のベルトを使って、ある老婆を身動きできなくなるまで殴り続けた。そして、女子の“紅衛兵”が老婆のお腹の上を飛び跳ねたりして、老婆が息を引き取るまでお腹を踏み潰し続けた。…今回の運動の中で、崇文門付近にある“地主の老婆(独居の未亡人)”の家を“家宅捜査”した。紅衛兵は近所の各戸の人に熱湯の入っている魔法瓶を持って来させ、強制的に彼女の首に熱湯を注ぎ、首に火傷をおわせ、首の肉が煮え切れるまで止めることはなかった。数日後、家に放って置いた死体はウジに満ちていた。…当時の殺人方法は多種多様で何でもありであった。棍棒で人を殴ることも、鎌で人を切ることも、紐で絞め殺すこともあった。赤ん坊に対しては、更に残忍な手段を用いた。赤ん坊の片足を踏み押さえ、もう片足を強引に引き裂き、生きたまま二つに引き裂いた」。(遇羅文『大興虐殺調査』より)
大興虐殺より更に野蛮な事件は、広西省における人食事件であった。鄭義氏はそれを三つの段階に分けて分析した。[11]
一、初期段階:人目を忍んで行い、恐怖に満ち気味が悪かった。某県のある案件記録は、典型的な場面を記している:深夜、殺人犯らが殺人現場へ行き、死体から心臓を取り出したが、経験が無い上に恐怖の余り間違え、肺臓を持ち帰ってしまった。やもなく、再び殺人現場へ行った。…料理が出来た。家から酒を持って来た者、おつまみを持ち寄って来た者らは、かまどの消えかかった明かりを頼りに、声も出さずに食べ物を貪った…。
二、上昇期段階:日増しに、勢いが増している。この段階になると、心臓を取り出す経験は相当ある。その上、人肉を食べたことのある先輩ゲリラ隊員の伝授もあり、技術はできている。例えば、生きている人の胸部を切開するため、あばら骨の下部を、ナイフで「人」の形に切り、腹部に向けて足で踏みつければ(被害者がもし木に縛り付けられているならば、ひざを用いて腹部を目がけて押し込む…)、心臓と腹部の内臓が自然と飛び出す。先頭の者は心臓、肝臓、生殖器を切り取り、残りは他の者に、自由に分配させる。赤旗は風に翻り、スローガンが大きく響き、盛大で勇壮な場面なのである。
三、 群集全体が狂気じみた段階:特徴は一言で概括できる:人食い集団。例えば、武宣市では、まるで伝染病が氾濫した時、死体を食べて目を赤くした犬の群れのようであった。人々は人肉を食べる。気が狂ってしまったように食べまくる。何かするとすぐに人を引っ張り出して「批判闘争」を行う。そして、批判闘争の後は必ず彼らを食べる。一人が倒れれば、息を引き取ったかどうかも構わずに、大勢の人が群れをなして押し寄せる。それぞれが事前に用意してきた包丁やナイフを倒れた人を目がけてどこの部分でも構わずに人肉を切り取る。…ここまで来ると、一般の群集も人食いの流れに巻き込まれて行く。ほんの僅か残された罪悪感と人間性も、「12級台風の階級闘争」によって、綺麗さっぱり吹き飛ばされてしまう。人食いの疫病は武宣市を席巻した。最頂点に達した時の形式は、「人肉宴席」と言っても、全く誇張ではなかった。人の肉、心臓、腎臓、ひじ、関節、関節の筋を…蒸す、煮る、焼く、炒める、餡かけにする、油で焼くなど、盛りだくさんの料理を作り出した。そして、酒を飲み、拳を打ち、論功行賞を行う。まさに人食い最高の時期に達した。最高権力機構である「武宣県革命委員会」の食堂でさえ、人肉を調理したことがあるのだ!
これら人食い宴会は、決して民間での自発的な行為ではない。全体主義組織としての中国共産党の社会に対する制御は、一つ一つの細胞まで浸透している。背後の中国共産党の煽りと操縦がなければ、このようなことは決して起こりえない。
中国共産党は自らの賛歌で、「旧社会[12]は人を鬼に変え、新社会は鬼を人に変える」と唱っている。それぞれの人食い宴会が反映したこととは、中国共産党は人を更に残忍非道な者に変えることができるということだ。何故ならば、中国共産党自身が残忍非道の悪魔より凶悪だからだ。
(三) 法輪功(ファールゥンゴン)迫害
今や中国人もまたコンピューターと宇宙飛行の時代に入り、私生活でも人権、自由と民主について語ることができるようになった。多くの人々はにあった恐ろしくてぞっとする、気味悪い暴挙は既に過去の出来事と思い、中国共産党は文明のコートを着て、世界と共に行動する時代になったと思っている。
しかし、現実はそうではない。中国共産党がある団体は彼らの拷問と虐殺を恐れないと知った時、あらゆる手段が更に狂気じみたものとなった。そして、その残忍な迫害を受けているのが法輪功(ファールゥンゴン)なのである。
紅衛兵の武装闘争と広西省の人食いは、相手の肉体を消滅させるのが目的である、数分間あるいは、数時間で一つの命を断ち切るというものである。それに対して法輪功(ファールゥンゴン)修煉者に対する迫害の目的は、彼らに「真・善・忍」の信仰を放棄させることが目的である。しかも、残忍な酷刑は常に数日間も、あるいは数ヶ月間、数年間も続いている。統計によれば、既に一万人の法輪功(ファールゥンゴン)学習者がこのために命を失った。
九死に一生を得た法輪功(ファールゥンゴン)の修煉者は、彼らが受けた百種類を超える拷問の数々を記録した。以下にその中の幾つかの例を挙げる。
ひどく殴打する手段は、法輪功(ファールゥンゴン)学習者に対して最も多く使用される拷問の一つである。警察官や獄吏らは、学習者をその場で直に殴打する他に、受刑者らにも学習者を殴打するように指示する。一部の学習者は、ひどい殴打によって耳が聞こえなくなったり、耳が裂けたり、耳が切れて取れたり、眼球が飛び出たり、歯が折られたりした。又、頭蓋骨、脊髄、肋骨、鎖骨、腰椎、腕、足の骨はひどい殴打によって折られたり、切断されたりした。又、男子学習者の睾丸を強く握りつぶしたり、女子学習者の陰部を強く蹴ったりした。学習者が屈服しなければ再び刑にかける。学習者らは皮膚が裂け、傷口の肉はぱっくりと開き、血だらけになり、元の形に戻らず変形するまで殴打され続ける。更に、塩水をかけ、高圧スタンガンで電気ショックを与え、血の生臭さと肉を焦がした臭いが悲鳴と共に交じり合う光景は、人の心が引き裂かれるほど強烈なものがある。又、屈服させるために、ビニール袋を頭に被せ、窒息する恐怖の中で殴打し続ける。
電気ショックは、中国の強制労働収容所で最もよく使われる拷問の中の一つである。警察官はスタンガンで、学習者の最も敏感で弱いところ、口腔、頭頂部、胸、陰部、女子学習者の乳房、男子学習者のペニス、肛門、太腿、足の裏などに電気ショックを与える。一部の警察官は、身体の至るところに電気ショックを与える。又、一度に数本のスタンガンを同時に学習者の身体に当て、肉を焦がした臭いが出るまで当て続ける。電気ショックを受けた学習者の身体は黒紫色を呈す。一部の学習者は頭頂部と肛門に同時に電気ショック与えられた。警察官は一人の学習者に対して10本、あるいはそれ以上のスタンガンを同時に使うこともしばしばあった。更に電気ショックを与える時間を長くした。このスタンガンは通常数万ボルト以上である。電流を連続して流す時には青い光を放ち、耳障りなピシピシという音が出る。 電流は人の身体に当てた瞬間、一気に火傷をしたような感じで、同時に蛇にでも咬まれたような感じがする。電撃される度に、蛇に咬まれたような激痛が走る。そして、電気ショックを受けた箇所は、すぐに赤くなり、肉が裂け、焦げて膿が出てくる。更に高圧のスタンガンによって、電気ショックを受けた場合は、まるで頭頂部を鉄鎚で、勢いよく叩かれたように凄まじいものである。
また、タバコの火を手、顔、足の裏、胸、背中、乳頭に当て、ライターの火で手、陰毛を焼き、加熱して赤くなった鉄線を両太ももに押し付ける。赤く焼かれた木炭を学習者の顔に押し付けて焼く。あらゆる拷問で虐待され瀕死状態になった学習者を生きたまま焼死させた後に、外部に対して「焼身自殺」として報道する。
女子学習者に対しては、胸及び乳房、下半身めがけて殴るのである。スタンガンを乳房と陰部に当て、電気ショックを与える。更にスタンガンを膣に入れて電流を流す。また、四本の歯ブラシを一束にして、女子学習者の膣に強引に入れ、歯ブラシを強くこすり回す。火かき棒で女子学習者の陰部を引っ掛ける。女子学習者の両手を手錠で後ろ手に掛け、電線を両方の乳頭に通し電気ショックを与える。女子学習者の衣服を剥ぎ取り素っ裸にし、男性牢屋へ入れ、男性犯罪者らに凌辱させる。
「恐怖の拘束服」[13]を法輪功(ファールゥンゴン)学習者に着せ、両手は後ろで交差させ縛る。更に後ろで交差させた両腕を両肩の上を通って胸の前まで引っ張る。両足を縛ってから、窓の鉄棒に宙吊りにされる。口を布で塞がれ、耳にヘッドフォンを付けられ、法輪功(ファールゥンゴン)を汚す録音を延々と聞かされる。この酷刑を受けた者は、その場で両腕に傷害が残る。先ずは両肩、両肘、両腕の箇所の筋が切れ、骨に亀裂が生じる。拷問の時間が長ければ、背骨も裂けて折れる。学習者は生きたまま痛みを嘗め尽くして死んで行く。
また、学習者を汚水、あるいは糞尿の中に全身を浸させる「水の牢」という酷刑がある。他には、先が鋭く削られた竹串を学習者の指先に差し込む。天井とほとんど隙間の無い狭い棚の上、又は、冷たい床に寝かす、至る所に赤、緑、黄色、白のカビが生えている部屋に入れられ、シェパード犬や毒蛇、蠍を使って学習者を咬ませる。神経を破壊する薬物を注射させるなど、その他奇奇怪怪な虐待手段が山ほどある。
三 党内の残酷な闘争
共産党は道義による結合の団体ではなく、党の本性によるものである。特に最高指導者に対する党員の忠誠心の高さが、非常に重要視される。よって、党内でも殺人事件が必要となる。最高独裁者が誰かを死なせたい時、その人の死に方が如何に悲惨であるかということを、周りに残った人達に、その恐怖を味合わせ、戒めとする。
従って、共産党の党内闘争も非常に有名だ。ソ連共産党で連続二度務めた前政治局委員の中で、先に亡くなったレーニン及びスターリン本人以外は、全ての委員は処刑され又は自殺した。当時、五人の元帥の内、三人が銃殺刑で処刑された。五人の集団軍司令官の内、三名が銃殺刑で処刑された。二等軍団及び師団の司令官10人が全て銃殺刑で処刑された。そして、85人の軍司令官の内、57人が処刑され、195人の師団長の内、110人が処刑された。
中国共産党も、常に「残酷闘争、無情な仕打ち」を鼓吹している。このような殺人闘争は、単なる党以外の者に対するものだけではなく、江西省にいた頃から中国共産党は、既にAB団を殺害している。[14] 殺人闘争の末、戦争の出来ない者しか残らなかった。延安市にいた頃は「整風」(思想と活動態度を正す)を行った。政権を打ち立ててから高崗、饒漱石、胡風、彭徳懐を粛清した。文化大革命になった時に、党内の古参はほとんど粛清され、誰も残っていなかった。中国共産党の歴代の総書記は、誰一人良い結末を送る者はいない。
中国の国家主席を務め、一度は中国国内の第二番手の地位にいた劉少奇は、このような悲惨な状況の中一生を終えた。彼の70歳の誕生日に、毛沢東と周恩来は特別に汪東興を派遣し、劉少奇にラジオをプレゼントした。彼に第八回の十二中国全国人民大会の公報、「反逆者、敵に内通する人、労働運動の裏切り者にされた劉少奇を永遠に共産党から除籍し、彼と彼の仲間が党及び国を裏切った罪状について、清算し続ける」を聞かせるのが目的であった。
劉少奇は、精神的に瞬く間に崩れ、病状は悪化した。彼は長期にわたりベッドに縛り付けられ固定されていたため、首、背中、お尻、踵は床ずれとなり、痛みと共に膿が出ている状態であった。彼は痛みに耐え切れず、側にいる人の衣服や腕に強く掴まるようになった時、彼らは劉少奇の手に硬質ポリ容器を握らせた。彼が世を去った時、二つの硬質ポリ容器は瓢箪の形になっていた。
1969年10月、劉少奇は、既に全身がひどく爛れ、生くさい臭いを放っていて、枯れ木のように痩せこけていて、息も絶え絶えとなっていた。中央特派員は彼に風呂も許さず、衣服も換えさせなかった。彼を素っ裸にし、蒲団詰めにして飛行機で北京から開封市へと送り、トーチカの地下室に監禁した。彼が高熱を出しても薬を与えなかった。その上、医師や看護士を彼の側から全部移動させた。劉少奇は臨終の際、まったく面影もなく、ぼうぼうとした白髪は二メートルもあった。二日後の夜半、急性伝染病患者として火葬処理された。使用した蒲団、枕など全ての遺物は共に火葬され、何も残されなかった。劉少奇の死亡書には次のように書かれていた『氏名:劉衛黄、職業:無職、死因:病死』。
中国共産党は国家主席まで死に至るまで迫害する、しかも死因ははっきりしない。